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日瑞関係トップ戦時下のイタリア戦時日欧横断記満州国参事官コンタクト

満州国参事官 三城晁雄のアルバム
Envoy of Manchuria, Akio Mishiro's family album
大堀 聰


本編は書籍化されました。(2021年2月16日〜)
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<序>

満州国イタリア公使館参事官,三城晁雄(以下晁雄と記す)の関係者には、筆者は常々コンタクトを取りたいと思っていた。2012年、『日本人小学生の体験した戦時下のイタリア』を書いた際に、ぜひインタビューをしたかった。またそれより前に書いた『戦時日欧横断記』の中でも、非常に過酷なトルコからソ連経由の三城一家の帰国経緯を、取り上げている。

そんな晁雄のお孫(三城恒二)さんからコンタクトがあったのは、2018年の夏であった。晁雄が6人の孫に分けて残したアルバムの一冊を、筆者は目にすることが出来たのである。写真は持ち帰ったものではなく、折々に日本に送ったものだけであった。多くの写真、持ち物は帰国途中での没収を恐れ、現地の人に預けてイタリアを引き揚げたが、戦後の混乱で戻らなかった。

つまり今回見た写真は、三城家の足取りのホンの何十分の一でかしかない訳だが、それでも貴重な体験は十分伝わった。本編はそれらの写真に晁雄自身の説明を添え、筆者が調べたことを加えることで、三城晁雄一家の欧州での足跡を伝えるものである。

付け加えると、戦時下の欧州を体験した人に関し、最近は孫の世代が調べようとするケースが多いようだ。一世代上の子供があまり行わないのは、彼らにはつらい記憶が生々しかったからであろうか?



<生い立ち>

写真解説:新京の自宅(自費で建てた家)母を迎えて。満禧は自動車、雄二はパパの腕に。左端妹夫婦。


1902年生まれの晁雄は熊本高校(五校)を卒業し、帝大法学部に進み、高等文官試験外交科の試験に合格し、日本の商工省に勤務するが、1925年中華民国の海関(税関の事)に転職する。ちょうど中華民国国家元首である孫文が亡くなった年である。

当時中華民国は財政が厳しく、税収が諸外国の担保になっていたため、債権国の国際管理下に置かれていた。よって税関の上級官吏は皆、債券国の人間であった。晁雄もその一人だったのだ。

大連の税関に勤務していた1932年、満州国が建国され、大連は満州国の領土となり、税関はそのまま職員一括して、同国財政部に入ったのであった。よって自ら望んで満州国に向かったのではなかった。1933年に栄子と結婚し、満禧(みつよし)、雄二が生まれる。
上の写真にある洋風でモダンな家を建てた満州国の首都新京では、財政本部に勤務した。


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<イタリアに>
 








写真解説:向かって左から満禧と栄子






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<宝塚歌劇団ローマ公演>

















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<外国訪問>






外国からなかなか承認を得られない満州国であったが、欧州ではイタリア、ドイツ、スペイン、ハンガリーの4か国に公使館、そしてハンブルクに総領事館を開設した。
公使館はどこも非日本人が公使を務め、日本人は参事官ないしは理事官を務めた。満州国は日本の傀儡国家でないことを示そうとしたからであろうか?そしてマドリッドには松村寛理事官が唯一の日本人として駐在していたので、写真の人物はこの松村であろう。

写真解説: リビア イタリア総督官邸訪問して。








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<天羽大使の日記より>














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<協定締結>

真の後ろの5人の女性の壁画は満州国の標語「五族協和」(日・韓・満・蒙・漢)を表している。こちら。(2020年4月20日追加)


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<家庭ナースと家庭教師>







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<松岡外相訪問>







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<コルティーナ・ダンペッオ>









晁雄は時々家族のもとに戻るが、その間の道はパルチザンが出没する大変危険な道で、みなピストルを忍ばせていたという。


上は1944年1月1日に撮られた記念写真である。前列ブレザーを来た男の子供のう



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<帰国>



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