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パリで敗戦を迎えた日本人
Japanese, who stayed in Paris until capitulation
大堀 聰


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本編は内容を補足して書籍化されました。(2022年7月8日~)
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<序>

先の戦争において日本との交通手段が絶たれ孤立状態となった欧州の日本人のうち、ドイツに関しては1942年4月現在の「ドイツ国日本人名録」が存在する。そしてこれは研究者の中ではかなり利用されている。

一方フランス(特にパリ)の邦人リストの存在はあまり知られていない。当時はドイツの占領下に置かれたことで、外交官、企業の駐在員はベルリンに比べはるかに少ない事はいくつかの書物から推定できたが、筆者は具体的には把握できなかった。また逆にパリにはドイツ以上に期限付きではなく、現地に住みついた日本人も多いはずだ。

そんな中、当時小学生でパリに暮らした女性市川澄子さんがフランスの邦人リストをお持ちであることを知り、そのコピーを筆者は人を介して入手することが出来た。そこには123の世帯主の名前が載っている。(厳密にいえば内13世帯はフランス政府の置かれたヴィッシー滞在)家族を加えると200名程の邦人が占領下のパリで暮らしたことになる。

少しさかのぼると、欧州で戦争が始まった1か月後の、1939年10月時点にパリに住む邦人は外務省の調査では247名で、男190名、女57名で前年に比べて182名減っている。マルセーユが51人で同じく24名の減である。フランスからすでに200名以上が、開戦前に引き揚げていた。

本編ではこのリストに載る邦人の内、連合軍によるパリ解放後、日本の敗戦時までパリに留まった邦人を中心に光を当てていく。



<リスト>

入手したリストには
「在留邦人住所録(占領地帯を主とす)
昭和17年(1942年)1月下旬調査 巴里日本人会作成」と表紙に書かれている。そして左上に「在仏海軍事務所 17.2.10 受領」というスタンプが押されている。また手書きで「在仏海軍武官の令息細谷資倫(さん)より頂く」と書かれている。手書き部分は戦後に澄子さんによって書かれたものだが、これから今回のリストはパリの海軍事務所が保持していたものであることが分かる。

パリの在留邦人住所録

作成されたのは、日本が1941年12月8日に米英に宣戦布告してから1か月足らずのタイミングだ。またドイツで作成されたのが1942年4月である。おそらく日本の外務省からの指示で、各地の日本人会が開戦直後の在留邦人の調査を行ったのが発端であろう。

ドイツ日本人名録

また押されたスタンプからリストを日本に持ち帰ったのは、1943年10月5日にブレスト港を出港した、伊号第八潜水艦で帰国した細谷資芳駐仏海軍武官であることがわかる。終戦時の引き揚げでは大使館、日本人会の指示で、こうしたリストの携帯は禁じられたから、これが唯一残る原本でなかろうか?同様にドイツのリストも1943年11月、貴重な通過査証でソ連を経由して帰国をした佐貫亦男の持ち帰ったものが、筆者の持つコピーの元の様だ。

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<パリ日本人会>




<戦時下のパリ日本人会、会報>








<パリ引き揚げ>




<パリ解放>





<チェルビ(加藤) 菊江>



<板東敏雄(画家)>


<長島寿義(ながしまひさよし)>





<椎名其二>




<斉藤哲司>



<平賀亀祐 ひらがかめすけ>




<片岡美智>




<森田菊次郎>




<大森鉄之助>




<石田新吾>





田スマ子>





<その他の日本人>





<李さん>




<滝沢敬一>




<戦後>





<リストに載らない日本人>

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