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< 敗戦ドイツの首都に残る>

Stay behind defeated Belrin after the war
 


1945年5月、日本の同盟国であるドイツが敗戦を迎えるに際し、ベルリンに滞在する邦人約500名は、次のような行動のうちどれかを選んだ。

1 オーストリアの温泉保養地ボードガスタインに避難し、交戦国アメリカ軍に捕らえられる。外交官が概ねこの手段をとった。
2 ベルリン近郊のマールスドルフ城等に集団で避難し、侵出するソ連軍に捕まり、日本に送還される。日ソ間にはまだ中立条約が存在していた事が救いとなり、多くの民間人が、こうして日本の敗戦直前に帰国した。
3 中立国スイスに逃げ込む。スイスの入国査証を持たないにもかかわらず入国しようとして、わずかばかりの人間が成功している。(スイス国境を目指して

そしてこれらの邦人の行動については、筆者はこのサイトで幾度か紹介してきた。今回は第4の行動、つまりそのままベルリン、またはドイツ領内に残留した邦人について紹介する。個人の手記などから、その動機、方法などを紹介する。そして戦後70年を経た今日、彼らにかすかな光を当てたい。



<残留>

1 可児和夫

もともと資料の少ない、残留者であるが、その中で一番状況が詳しく分かるのは可児和夫であろう。可児自身が文芸春秋1951年2月号に「一日本人の体験した25時 −東独のソ連抑留所の地獄の記録―」と言う体験談を書いている。また1995年12月8日の日本経済新聞にドイツ在住中島栄子さんが、「絶望収容所に温顔の医師」という記事を書き、それは報道番組ニュースステーションで紹介され、司会者の久米宏が可児の当時の日記の冒頭を読み上げる場面に、筆者は偶然遭遇した。

可児は1904年7月5日生まれ、本籍は岐阜県大垣市である。岐阜県には可児市があるので、そちらに多い名前であろうか?また三菱の戦時下のドイツ駐在員に似た名前の可児孝夫がいる。

可児和夫は東京帝国大学で独法を学んだ後 九州医専で医学を修め1936年にドイツに留学。その後間もなく第2次大戦が始まり、帰国を断念する。そして1940年4月に日本経済新聞のベルリン通信員を委嘱される。その後は読売新聞に属し、ドイツの終戦を迎える。

その際、ベルリンの民間人は先述のようにマールスドルフ城に集結し、ソ連の保護を待ったが、可児は北方95キロのラインスベルクに車で逃げる。どうしてこの行動に出たかは、本人の手記からも読み取れない。朝日、毎日の特派員はかなり統制のとれた避難行動をとったが、読売は個人ベースであったのも一因かもしれない。

ラインスベルクにソ連軍が迫って来るが、西に逃げると米英に捕まる恐れがあったため、そこでソ連軍を追い越させた。そして占領されたラインスベルクには、ドイツ人の医者は皆雲隠れして、一人もいなかった。市当局が(やぶ医者でもいないよりは良いと考え)可児に「市医になってくれと頼みに来た。」可児は確認できる範囲では、ドイツでは戦時中、医療行為に携わっていない。それでも”昔取った杵柄”で何とかなったのであろう。

しかし3週間ばかり経って、ソ連のゲーペーウーの本部から「ちょっと診療に来てくれ」と言われて行くと、そのまま地下室に放り込まれ、ついでソ連のザクセンハウゼンの収容所に送られ、そこで4年半の苦しい生活をおくることになる。

収容者はソ連が“スパイ“とみなした人間で、毎日死者が出た。可児はそこでも医者として活躍し、収用者の間では「微笑むブッダ」のあだ名で呼ばれ、釈放後も長く慕われた。

まだ日本大使館もない時代、運よく釈放された可児の身元確認をしたのは、ドイツの名優ヴィクトル・デ・コーヴァー夫人となっていた田中路子であった。

ベルリンの田中路子、デ・コーヴァー夫妻の墓。日本調
で後ろの木はおそらく桜 (筆者撮影)

解放後間もなくして、可児は文芸春秋に体験記を書いているので、戦後ドイツでソ連の収容所に入れられた日本人は、日本でも話題にあがったのであろう。
その後可児は日本に戻ることがあったかは不明である。中島によれば、収容所での悲惨な体験から、二度と白衣は着なかった。冒頭の日経の記事によれば1995年時点、91歳の可児はドイツの老人ホームで暮らしていた。

<追加>

中島の記事では、1994年ころ身寄りもなく老人ホームに入った可児だが、その可児からドイツ人の奥様の家に伝わる柱時計を譲り受けた日本人の話がネット上に出ています。こちら参照

それによると夫人の名前はエヴァで、父親は「ドイツ帝国の大蔵次官を務めた人であった。2人のベルリンでの住所はメラナ通りであったという。筆者が調べたところ可児は1942年、すでにメラナー通り(Meranerstra.50)に住んでいる。つまり戦時中には結婚していたことになる。

すると可児が他の日本人と一緒に日本に引き揚げなかったのは、ドイツ人夫人のためかとも推測される。また収容所に入れられたとき、夫人はどうであったのか?新たな疑問である。

最近(2016年9月)、ドイツの蚤の市で偶然、ドイツで出版された可児の書いた「百聞は一見に如かず」という本(1964年発行)を見つけた話も紹介されています。こちら参照(下の方です)
(2016年10月1日)



2 肥沼信次 

肥沼については「大戦秘史 リーツェンの桜」という本が出版され、彼の功績が記されているが、彼がドイツに残留した経緯等はよく分かっていない。

東京帝国大学医学部で放射線教室に籍を置いた肥沼は、1937年春にベルリン大学(正式名フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学。現フンボルト大学)の医学部放射線研究所に入り、数々の研究成果を上げ東洋人として初めて教授資格を取得した。

終戦直前、彼も日本人の避難グループに加わらずに、知り合ったシュナイダー親子とベルリン東北東のエーバースバルデに向かう。殆ど邦人との付き合いがなかったようで、残留の理由、特にシュナイダー夫人がその理由なのか?また避難の経路、手段などは不明である。

間もなくしてポーランド国境に近いリーツェン市で伝染病の診察に当たるが、肥沼自身がチフスに罹り1946年3月8日死亡する。1992年、リーツェン市は恩人である肥沼に名誉市民の称号を与えた。そして市庁舎の正面玄関の壁には、彼の功績を讃える「記念銘板」が飾られているという。

こうして残留した肥沼も可児同様、医者であった。日本に帰国する意思を持たずに残留していた邦人を、ソ連軍は見つけ次第、日本に送り帰していたが、医者が全く不足する敗戦ドイツ、例外扱いされたのであろう。



3 北山淳友

北山は1924年、浄土宗より留学生としてドイツに派遣された。彼はドイツにおいて、仏教哲学さらにはインド学などを研究、1929年にハイデルベルク大学より博士号を取得する。 

その後の北山は、ドイツの数カ所の地方大学にて教鞭をとった後、1936年にJapan-Institute-Berlin(ベルリン日本研究所) における副主事就任のためベルリンへと移っている。

1942年から43年にかけてはベルリン大学等で、日本精神を訴え、ナチスに共感する大島大使とも緊密な関係であったという。

1944年にはプラハに移り、日本総領事館内東亜研究所所長を務めるが、同年11月のドイツ邦人隣組リストには北山の名前があり、住所はベルリン東方50キロのFuerstenwaldeとなっている。ベルリン近郊にも避難用住居も残していたようだ。

ウィーン総領事館の報告書では、北山はドイツ敗戦時「同地(プラハ)極東協会にて日本語の教授をしている。」とある。北山もソ連軍軍の迫る中で出されたベルリンへの引き揚げ勧告にも従わなかったようだが、その主たる理由は不明である。

そのままプラハで終戦を迎えるが、戦後の政変の為、強制収容される。1年間労働に服し、1946年に解放される。そして柔道教師、日本語教師を務めたという。環境に馴染めなかったのであろう。共産国となったチェコスロバキアからの脱出を図るが遂げられず、身辺の警戒が厳重になった。1961年病を得て、プラハ郊外の病院に入院、1962年に客死する。
(主に「日本語講師北山淳友の事績.」小川誉子美.より)

先の奥山総領事の記録によると、ウィーン管区には他に以下のような邦人がいてそのまま残留したようだ。
ミュンヘン:江森清次郎妻(但しドイツ人)、本間節子(江森の妻が先夫本間氏との間に設けた子供)
グラーツ:井口未亡人
彼女らは日本人と結婚し死別するものの、そのまま日本国籍を持つドイツ人であろう。



 篠原正瑛

留学生篠原は1944年9月、ベルリン北方65キロ、テンプリン市のギムナジウムに日本語教師として赴く。もうドイツの敗戦がささやかれる頃であったが、日独協力の一環であり、誰かが行かねばならぬと引き受けた。

週末はベルリンに戻ったが、最後は1945年3月末であった。ベルリンの邦人の間では避難先の話でもちきりであった。篠原は、運よく会う事の出来た友人、知人の一人ひとりの手を握って、別れの挨拶をして、テンプリンに戻った。この時すでに彼らと共に日本に引き揚げる事は諦めていたようだ。

4月に入りソ連軍が迫ると、ベルリンに行く道は遮断されたが、ハンブルクならまだ行ける、そこには日本の総領事館があるはずと、200キロ以上を歩いて避難する。この避難の途中、エルゼというベルリン日本大使館で料理係をしていた女性に呼び止められ、彼女と行動を共にする。彼女は乳呑児を連れていた。先に述べた肥沼と同じような状況である。危機的状況で、ドイツ人女性の目に、日本人男性は頼もしいものに映ったのであろうか?

5月2日、シュベリーンでアメリカ軍のMPに捕まった。その後について篠原は以下のように書いている。
「シュベリーンの監獄の独房で2週間を過ごしてから私は、イギリス軍が管理するヴェスターティムケの集団収容所に送られた。そこで8月まで暮らしてから、病を得て、抑留状態のままローテンブルク(ブレーメン近郊)の旧ドイツ軍の病院に移され、数か月後、さらにヴィルデスハウゼンの療養所に移送された。1946年7月、抑留は解かれたが、そのまま同療養所に留まって療養生活を続けた後、翌47年12月にスイスに移って闘病生活を送ってから、1949年3月、10年ぶりに日本に帰った。」



 田口正男と田中路子

ベルリン残留者で一番多かったのは、ドイツ人と結婚してドイツ社会に溶け込んでいた人達であろう。彼らは主に駐在する日本人相手に土産物屋、御用聞きのような商売をしたり、食事を提供したりする事を生業としていた。

残留の足取りがはっきりしているのが田口正男である。田口は「日本堂」という印刷会社を経営し、「日独月報」という邦人相手の情報誌を発行した。今も海外の日本食レストランなどで見かけるフリーペーパーである。

そして大使館が発行する印刷物の制作も多く手掛けている。筆者が見つけたものだけでも「昭和17年独逸国日本人名簿」、昭和18年2月調べ「帰朝旅行に関する参考事項」などなどである。
ただしどれも活字で打たれたものではなく、手書きである。おそらく謄写版によるもので、部数も少なく、それで間に合ったのであろう。

「日独月報」には彼の履歴が書かれている。それによると田口は1894年秋田生まれ、1917年に田口高級工具製作所を創設。1925年にドイツに視察に向かう。そして第一次世界大戦の敗戦から復興するドイツに感銘を受け、そのまま残留。1940年5月46歳の田口は25歳のドイツ人と結婚する。(「言語都市ベルリン」より)
生活基盤がドイツに移った田口は、残留を決めた。

ベルリンが陥落後、田中路子の夫デ・コーヴァは突然ソ連軍によって連れ去られた。ベルリン郊外の元ゲシュタポの地下牢に入れられた。気持ちが落ち着いた頃、彼は一番奥に端座した小柄な東洋人に気付いた。彼が田口であった。出獄の日、デ・コーヴァは田口に名前と住所を告げて

「私の妻は日本人で、明日ここを出てもし行くところがなかったら、遠慮なく私の所にいらっしゃい」と言い残した。田口は実際その後、数か月デ・コーヴァ夫妻の所に世話になったという。

ドイツ敗戦当時、ドイツ人と結婚していたため、唯一合法的にベルリンに残れたのが田中路子であり、そこで敗戦直後に世話になった残留邦人は田口だけのようだ。また田口は夫婦ではなく一人で世話になっている。ドイツ人の妻がいる場合は、その家族の世話になったであろうから、田口は21歳年下の妻とは、この時別れていたのであろう。

付け加えると田中路子は終戦後、残された駐在員と現地人の間に生まれた子供の世話も見たという。また先に紹介した可児和夫がソ連の収容所から解放された時、身元の確認をしたのも田中で、その後1年ほど可児は田中邸に住んだという。


田口の名前のある印刷物の表紙(左)と奥付(右)



6 酒井宗四郎 

戦前、パリの満鉄事務所で料理人として勤務していた酒井は、パリ陥落直前、他の在留邦人同様にベルリンに避難する。そしてベルリンの海軍武官室でやはり料理人として働くが、すぐにドイツ人と知り合い結婚、ベルリンに残留した。(「龍宮紀行」田丸直吉より)

戦後はハンブルグでシップチャンドラー(船舶に食糧などを供給する業者のこと)をして、日本よりの貨物船に日本食品を供給していた。

敗戦後のドイツで日本人が生活していくことは大変であったことは想像がつく。彼らの顧客であった日本人がいなくなってしまったのであるから。戦後最初にハンブルクに赴任となった三井物産の大場定男によると、意外にもハンブルクには、シップチャンドラーとして敗戦ドイツに残留した日本人が何人かいたという。酒井もその一人であった。

おそらく日本から貨物船が最初に来るようになり、シップチャンドラーが当時唯一の、日本人が働ける職業であったのであろう。



7 高田博厚 

ベルリン崩壊に際し、愛すべきフランス目指して、単独行動をとったのが彫刻家の高田である。

かれは1937年、パリには在欧日本人向けに、謄写版刷りの日刊「日仏通信」を始めた。1938年「パリ日本美術家協会」を設立した。ドイツに占領された1940年には、毎日新聞の特派員になった。

1944年44歳の時、連合国によるパリ解放の直前、他の在仏日本人とともにベルリンへ移され、1945年のドイツ降伏後、毎日新聞の同僚と共にベルリン郊外のナウエンでソヴィエト軍に保護された。

他の邦人同様にモスクワに送られる直前のある日、ドイツに徴用されていたフランス人が、母国に帰国しようとする場面に遭遇したので、その一行に高田は入り込んだ。

「お前はフランス人か?」と聞かれて、高田が「そうだ」と答えたら検問のソ連兵は通したという。その後は彼らとも別れ、単身パリを目指した。そして1年半の収容所暮らしを経て、1946年暮にようやくパリに帰ることが出来た。
(「分水嶺」高田博厚より)

これまで見てきたようにほぼ全員が収容所に入れられている。残留した者にも、甘くない試練が待っていた。
現状分かっている残留者は以上である。



<強制送還>

田口、酒井のようなドイツ人と結婚していた邦人に、残留を希望したものは多かったことは紹介した。一方残留を希望したものの、ソ連軍に捕らえられ、半ば強制的に日本に送還された人もいる。

1 邦正美

舞踏家邦正美は、日本に帰る意思がないことを告げ、邦人マールスドルフ城に行かないことを、公に認めてもらっていた。彼の残留の理由は、敗戦国ドイツでも日本より良いという“ドイツ礼賛”でろうか? 

日本大使館は邦のパスポートに、
「本状所持の者は日本臣民である。保護してくれることを依頼する」と言うロシア語の保護状を付けてくれた。万一ソ連軍の手中に落ちた時のためであった。同様の手続きを取ったのは、先述のドイツ人と結婚した者、それに近衛秀麿であったという。

邦は大使館から20キロの別荘地グロース・グリーニッケの借家で、ソ連軍を迎えた。ソ連兵の横暴ぶりを目にし、間もなく赤軍のトラックでファルケンゼーに連れて行かれ、農家に軟禁された。ここで小室恒夫商務官が率いる、三菱商事の関係者の一団に合流させられた。ひどい身なりであったと、当時子供であった引揚者が回想している。そして帰国のためにモスクワに送ることを告げられた。これが残留邦人を見つけた際の、ソ連軍の標準的対応であった。

邦はそこで日本に帰る意思のないことを告げたが、聞き入れられなかった。途中のモスクワでも、日本大使館に勤務するかつての知り合いである法眼晋作に、ベルリンに帰れるように懇願したが、聞き入れられなかった。
(「ベルリン戦争」邦正美より)



 近衛秀麿 (指揮者)

元首相の近衛文麿の実弟である近衛秀麿の残留理由は次のようだ
彼はソ連軍の手でシベリア経由で送還される民間人と同じ行動を断念し、捕虜としてでも何としてでもアメリカに渡り、米軍の手を借りて、日本に抗戦を断念させようと考えた。(「ベルリンに捕らえられて」近衛秀麿より)
この主旨からすると、今回の”残留者”に入れるのはふさわしくないかもしれない。

ライプチヒ近郊に借りていたアパートに潜んでいるところを、計画通りにアメリカ軍によって捕らえられた。そして大島大使らと共にアメリカに送られたが、日本の早期降伏に向けた行動はとらなかったようだ。



3 浅井一彦

満州重工業に勤務した浅井の、家族を残した強制的引き揚げに関して、筆者はすでに「浅井一彦 マッカーサーへの手紙」で紹介した。そちらを参照いただきたい。



4 崎村茂樹

ドイツでの学徒会に参加したまま、日米開戦で帰国できなくなった崎村については、いろいろ書かれてきた。そして次の逸話もすでに述べられている。

ベルリン総領事館馬瀬金太郎の「在独邦人の引き揚げに関する件」と言う報告書によれば、「崎村茂樹はマールスドルフ出発の際はいたものの、出発の瞬間に姿をくらましたようで、ベルリンにて点呼の際に不在であることを発見せり」と書かれている。
崎村は最後の瞬間に、団体行動から離脱し、残留を決めたことになる。

その後の崎村の足取りについては諸説あるが、「薔薇色のイエトワール 」によれば、結局ドイツ人女性と一緒にモスクワに送られた。そこで正式な婚姻関係にない彼女はドイツに戻され、崎村のみが満州に向かった。
逃亡後間もなくしてソ連軍に見つかり、邦同様強制送還されたのであろう。筆者は崎村の足取りに関し、この説をとる。



5 野原駒吉

野原については別稿、「赤十字駐日代表部で働いた野原某とドイツの野原駒吉」に詳しく紹介したので、こちらを参照ください。
(2016年11月26日)



<ベルリンからの引き揚げの様子>

ベルリン西方のマールスドルフ城に避難した日本人百数十名は5月18日、ソ連軍の大型トラック10台に乗せられ、戦禍のベルリン市内を通り、東端のリヒテンベルクに到着し、分宿させられる。ここに日本人が連れてこられたという情報は、市内の日本関係者に伝わったようだ。留学生の恋人などが集まってくる。留学生から陸軍武官室の雇となった坂尚敏の記録から再現する。

「5月18日 戦禍のベルリンに入る。放送塔の下で中西夫妻下車自宅へ。カイザーダムに入る。虚脱の表情。」
 厳しい監視のもとだが、中西夫妻は一旦、自宅に戻ることが許されたようだ。

「5月19日 終日監禁状態が続く 密かに脱走してベルリン残留を考えたが決心つかず。ベルリンの自宅に帰るヨハンナに、(下宿の女主人)エリクセン宛ての手紙を託す。」
ヨハンナは坂の彼女であろう。坂、および先述の崎村のように、最後まで残留を迷う邦人がいたが、独身で留学生が主であった。

「5月20日 発車直前、列車に駆けつけた今仁(親男)君を送ってきた彼女」ともある。今仁も留学生であり、帰国か残留か最後まで迷ったようだ。同じ日さらに続けて

「清水(惣弥)君酔いつぶれて前後不覚。床に横たわったまま。パリに残してきた妻子を考えれば、同情に余りあり。」
現地人を妻にした邦人では、妻子を連れて日本に引き揚げる者、共に残る者の他、陸軍武官室の嘱託であった清水のように、妻子を残して本人だけ戻る例もあった。



<モスクワ>

先述の集団帰国の一行は5月20日の午後1時、リヒテンベルクを出発する。列車は5月25日、午前9時にモスクワに到着する。モスクワでは日本大使館がまだ機能していた。ベルリンに戻る希望を捨てがたい者にとっては、引きかえす最後のチャンスであったが、佐藤尚武大使はきつくそれを禁じた。

同日午後3時ごろ、シベリアに向けモスクワを出発するが、以下の者が、病気、パスポートの不備で、残留している。
宮崎夫妻(直一 バイオリニスト)岐阜大、南山大 妻ルシーのお産の為。後の岐阜県交響楽団(岐響)の創設者で、元岐阜大音楽学科教授
中西夫妻 (中西賢三中管商会社長とヘレネ)
ペーター上阪親子(ドイツ放送局)、
鈴木(重吉、料理人?)の細君と連れ子のギッタ、
滝田次郎氏 北大卒 雛の雌雄鑑別師を率いて来独。日本人会勤務 

残留したのはほとんどがドイツ人を夫人とする者だ。ただし彼らはその後の列車でで満州に向かっている。モスクワの日本大使館はドイツからの引き揚げ者は例外なく帰国させたが、ドイツ人夫人、子供には例外があったかもしれない。



<オデュッセイア>

ドイツを離れ満州に向かったものの、敗戦後すぐにドイツに戻った者もいるが、彼らの旅も決して楽なものではなかった。

1 澤田豊

サーカス団の一員として1904年頃ドイツに渡り、有名なサラザニサーカス団に所属した澤田はドイツ人ベティと結婚し、6人の子供をもうけていた。
ドイツ敗戦直前1945年4月上旬にもライプツィッヒで公演が行われた。その後ベルリンに戻り、敗戦後の5月15日、紙くずになる前のマルクで、ベルリン郊外のヴァンゼーに大邸宅を購入した。

以上は「海を渡ったサーカス芸人」からであるが筆者の調べたところ、1944年11月の住所はすでにヴァンゼーなので、大邸宅の購入はもう少し早そうである。そして日本人会の隣組リストに一家の名前があるので、日本人社会とも繋がりがあり、ドイツ敗戦時には日本に戻るという考えもあったと想像されるが、最終的にベルリンに踏みとどまった。

しかし、ドイツ敗戦から1か月が過ぎた6月13日、ロシア兵が訪れ
「外交人はすべて本国に送還されることになった。(中略)いまから20分の時間をやるから、すぐに荷物をまとめなさい。あなたたちを日本に帰します。」と命令した。この時豊は日本に帰れると思い喜んだ。

一家は毎日新聞社のベルリン残留組と共に、シベリア鉄道で満州に向かう。ドイツ引き揚げ者としては一番遅かった。国境の町満州里に着いたのは7月1日であった。しかし沢田一家は日本に帰ることは出来なかった。満州で敗戦を迎え、その後天津に移り苦しい生活をおくる。

1949年3月、一家が向かったのはドイツであった。最初に着いた西部の大学都市ミュンスターでは
「46000キロの旅路、現代アーティストの宿命」というタイトルで一家は新聞で紹介された。本文では
オデュッセイア」”Odyssee”という表現が使われているが、これはホメーロスの抒情詩から来ていて、「放浪と冒険の長い旅」という意味で、ドイツではよく用いられた。



2 佐藤信一 

ドイツの新聞にもう一人「オデュッセイア」の見出しで紹介されたのが佐藤信一である。ベルリンのTelegraf紙に「佐藤博士のさすらい」の見出しで戦後、8年半ぶりにベルリンに戻った夫妻の長い旅が紹介されている。

佐藤は1929年ベルリンに来る。そして研修中に動物心理学者ギゼラと知り合い結婚する。その後日本人食堂などがあるガイスベルガー通り(Geisbergstrasse)にカイロプラクティック(整体院)を開くが、ドイツの政治経済界の大物も利用して繁盛した。しかし1943年年11月の空襲で持ち物すべてが燃えてしまう。

ドイツの敗戦に伴い、多くの日本人と共に夫婦は満州に引き揚げる。満州で敗戦を迎えたが、ソ連軍によりスパイ容疑で信一は拘束、抑留された。妻は自由の身となったが、夫に従い収容所に戻る。そこで6年を過ごし、夫妻は肉体的、精神的にもボロボロになった。

ようやく自由になると、今度は中国人によって収監された。そして唯一のドイツに戻る方策として、まず日本への送還を申請した。

日本に戻ると2本の輸血が、かろうじて弱った夫人の命を救った。そして「ギゼラが死んだら故郷ドイツに埋葬する」と決め、夫妻は欧州に向かう船の来る香港に向かう。ようやく乗れる船を見つけてイタリアのジェノバに着き、その後ベルリンに戻った。

「ベルリンには彼(佐藤)を忘れないドイツ人がいた。しかし彼には新たに医者を開業する資金がない。」という文章で、当時の新聞は終わっている。

その後ドイツ在住のある日本人弁護士が、佐藤の面倒を見て、その方より筆者は情報を頂いた。



<パリ>

最後にパリに留まった邦人についても触れておく。パリではベルリン陥落前の1944年8月、邦人は解放されるパリを逃れ、ベルリンに向かうが、それを拒んだ日本人がいた。その一人であるフランス文化研究者の椎名其二が書いている。

「パリ解放当時、私はパリで大使館の図書整理をさせてもらっていた。大使館関係の人やまだ居残っていた同胞の大部分が、いよいよスランスを引き揚げるにあたって、居残る決心をした私は、正式に大使館の留守番を委任された。

パリに居残った若干の同僚の中には、スパイの嫌疑を受けてえらい目にあったものもある。私はフランス外務省の東洋課へ行って、残留日本人に対してどうしてこんな厳重な処置を取るのかと尋ねた。東洋課長は

“日本人がすでにフランス人を拘留している。それだけではない。日本軍はインドシナにおいてフランス人を殺害さえもしている”と言って、私にインドシナにおける日本軍の暴行の写真を見せた。

私は文句なく引き下がった。そして我々15名ほど、近郊ドランシーの捕虜収容所へ突っこまれたのであった。ほとんど健康を害したものが2,3名あった。私もその一人である。」

パリに残った者も抑留された。そして翌年8月になって、椎名らはこの捕虜収容所の5階で日本の敗戦を知った。その中には画家斉藤哲司もいた。

ただし病弱の亡命ロシア人の面倒を見ていたチェルビ菊枝、アメリカのパスポートを持っていた早川雪洲などは抑留を免れている。

フランスには他に松方コレクションを守った元海軍軍人日置ス三郎、パリ日本館を作りパトロンであった薩摩次郎八など興味深い人物が居残ったことが分かっている。

別稿『パリで敗戦を迎えた日本人』はこちら



<パリ引き揚げ>

時代は前後するが、パリの日本大使館を最後に引き揚げた重光晶官補は、この引き揚げの様子を書いている。

「パリには(日本からの駐在者を除けば、50人ほどの在留邦人がいるだけです。多くは30年、40年とフランスに住みついている人達で、日本に親類、縁者のいない人もいます。

我々はこれらの日本人の家を、いちいち訪ねて回りました。金持ちのフランス人のコックをしている人、小さな木工店をやっている人、中にはどう見ても夜の商売としか思えない夫人もいました。

このような人々に(中略)、このままパリに留まる様に勧めたというのが実情に近かったのです。それでも2家族が、この際是非とも日本に帰りたいというので。不要になった私のトランク等をあげて、ベルリン行きの手続きをしてあげました。」

冒頭の可児の話を筆者が知ったのは20年以上前の事である。それから同様な行動をとった邦人について、情報をコツコツと集めてきた。その結果が、ここまでの内容である。今後も敗戦ドイツに残った人の足跡を追いかけていく。

(2015年8月10日)



<滝沢敬一>

横浜正金銀行のリヨン支店に勤務し、フランス人と結婚して、退職後もリヨンに滞在したのが、滝沢敬一である。彼は「フランス通信」として戦中、戦後のフランスの様子を書き残している。そこからパリ解放時の様子を紹介する。

「1944年6月、7月にかけ再三パリ(の日本総領事館)に(電話を)かけ、対策を問い合わせたが、誰も返事をくれず、(管轄の)保護在外公館であるマルセーユ領事館との連絡も7月にぶっつり切れてしまい、日本人の動静がちっとも知れないのには困り抜いた。

私は逃げ延びる便宜手段もなし、金もなし、捕まったらは百年目と高をくくり、山荘に隠れたきり、一歩も出ずにいた。」

フランスの対日宣戦後、憲兵が訪ねてきたが、ドイツ軍への協力者でもなかったので、四方山話などをして帰っていった。その後は大手を振って街にも出かけ、リヨンで日本の敗戦を迎えた。敗戦の情報は、アメリカ等のラジオから聞くだけであった。

(2015年8月30日)
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『第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス)』はこちら




<バーバラ寺岡>

寺岡洪平ハンガリー公使は、混乱のハンガリーを引き揚げる際、臨月の妻エリザベートを残して帰国した。この時妻エリザベートのお腹の中にいたのが、後の料理評論家バーバラ寺岡である。
欧州邦人 気になる人 (バーバラ寺岡と寺岡洪平)参照
(2016年10月23日)

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