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日本 作者のノート3 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

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「あけぼの」の経営者、杉本久市の足跡を追う

<序>

戦前、戦時下ドイツのベルリンにあった日本食レストラン「あけぼの」に関して、筆者は多大なる興味を持って調査を続けている。(「戦時下ドイツの日本食レストラン“あけぼの”の写真発見」参照)

最近そのオーナーであった杉本久市(すぎもとくいち)の親族の方から連絡を頂き、お話を聞くことが出来た。これは筆者にはまさに夢のような話であった。親族の間でもいろいろ調査をされ、あけぼののあった場所も訪問していたとのことである。以下はお聞きした話を元にした、杉本久市の実像である。


杉本久市 ベルリンに渡ったころの写真か。


<ロンドンへ>

杉本は明治16年(1883年)3月24日生まれである。海軍に勤務の後(新婚時代は舞鶴で過ごす)、1916年から18年ころロンドンに渡る。35歳くらいである。妻と一人の娘を残してであった。技術導入か、ホテル経営を学ぶためであったという。


ロンドン時代

1921年にロンドンの西240キロの港湾都市カーディフにいた記録が外交史料館にある。それによると英国が第一次世界大戦後に不況に陥ると、現地の日本人の船乗りの失業者が300人にも上った。杉本はそうした失業者の2人を家に泊めていると報告されている。「ホテル経営を学ぶために渡英したのでは」と語る親族の証言を裏付けているかもしれない。

「英国における失職本邦海員救済に関する件
林駐英大使 内田外務大臣あて 大正10(1921)年7月6日

昨年来の景気不振により英国では炭鉱夫の失業者増大。それにより航海業もまた甚大な影響を被る。
本邦海員失職者も増加し、目下ロンドン、カーディフ、ミッドルスバラを通計すれば約300名の
多きに上り、その大部分は邦人経営の海員宿に起臥してただ、再就職の機会を待っている。

海員宿収容失職船員数。
カーディフ (ロンドンの西240キロ)
浅川所一の下宿     91名
杉本九市 (下宿業者にあらざるも一時、船員を止宿す) 2名
(2017年5月7日追加)

その後1930年1月から3月の間に、ロンドンで杉本に新たな旅券が発給された記録が飯倉の外交史料館に残っている。47歳の時である。

訪問国として英国、ドイツ、オランダ、フランス、ベルギーを申請している。そしてその際に杉本九市を杉本久市と読みを変えずに、字を変えている形跡がある。変更の理由は不明だ。

旅券の保証人はイギリス在住、岩崎盛太郎と言う人物である。岩崎はイギリスでいくつか事業を行っていたが、その一つが「常盤」(ときわ)という日本食レストランの経営であった。ロンドンではもっとも有名であった。
岩崎盛太郎の名前は、三菱財閥創業者である岩崎弥太郎との関係を想像させるが、元はロンドンの日本人会の料理人であったという。(「言語都市ロンドン」より)

岩崎盛太郎の常盤はその後も順調に拡大を続けたようだ。1936年の「在外本邦実業者」の調査によれば、営業種別に
1 旅館料理、食料品部
2 運送旅行案内部
3 雑貨部
と書かれ、日本人従業員18人、外人4人となっている。こちら参照。
(2016年12月5日追加)


<ベルリンへ>

その頃ドイツではナチスが力を増し、それに応じベルリンに日本人駐在員が増えていた。この時期にいくつかのロンドンの日本食レストランがベルリンに支店を開店させている。「常盤」もその一つで、1931年7月にベルリンに存在していた記録がある。タイミングからしても杉本は、常盤のベルリン店開店のために、ドイツに渡ったと考えて間違いないであろう。

その後常盤は何らかの理由で閉店となるが、杉本はそのままベルリンに残り、あけぼのを開いたのであろうというのは、筆者の推測である。そのあけぼのの開店の時期であるが

「日本レストランあけぼのの経営者杉本は、酒類販売を拒否された。これは事実上レストランの閉鎖を意味し、杉本は1935年5月29日の書簡で独日協会に相談している。」と言う記録があるので、この頃であろうかと想像される。

当時の様子について「あけぼので杉本は、店の奥で大島大使と親しげに話していた」と語ってくれた人もいたという。(注:親族の方が同盟通信社の江尻進さんから聞いた話)

そして欧州で戦争が始まり、日本への帰国が難しくなる頃、留守宅に
「モスクワで飛行機を手に入れて(チャーターして?)帰国の予定」と、珍しく連絡があったという。それは1941年6月22日に独ソ間で戦争が始まり、実現しなかったのであろう。

「1941年12月13日、病死」と言うドイツ語で書かれた電報が、広島県呉の留守宅に届いた。死因は脳溢血であった。日本が米英に宣戦布告して5日目の事である。

杉本の在独中に、外交官などが「杉本さんにお世話になった」とわざわざ呉の留守宅まで来てくれた人が何人かいたという。杉本から預かった孫へのプレゼントや、かなりの金額の日本円を置いていった人もいた。
雇われていた日本人コックとそのドイツ人の妻も訪問してくれた。杉本の後のあけぼのの主人となった平田文とシュペアー夫人であろうか?

杉本久市と言う人物について、まだまだ分からない事も多いが、薄明りは見えてきたと言えそうだ。写真など杉本に関する多くの記録は、呉の実家が空襲を受けて、焼失してしまったという。


冒頭の写真は実は二人で写っている。そして裏には「仲良しと」と書かれている。何か情報をお持ちの方がいらっしゃったら冒頭の”コンタクト”よりお寄せください。

以上(2016年2月11日)



<新史料発見>

外交史料館の外交文書のかなりの部分は現在、アジア歴史資料センターのサイトでオンラインで検索し文書も閲覧することが可能だ。これによって飯倉の外交史料館に足を運ぶ必要もなくなり、膨大な時間の節約が可能となった。しかし個人情報への配慮か、K門(内外人外国在留、旅行及保護)は公開されていない。そのK門を見に外交史料館に出向いた際、杉本九市に関する新しい史料を見つけた。

それは「1942年6月29日 条約2課長発広島県呉市長宛」でおおよそ次の様な内容だ。
「杉本九市の戸籍謄本送付依頼の件
貴市三城通XXX、杉本九市は昨年12月13日ベルリンにて死亡したので、その遺産整理、残額を当該相続人に交付するとすでに関する大島大使より電報があったが、妻は杉本フミヨとなっている。故人死亡に関する届出等が必要なため、謄本一通を至急送付されたし。」

筆者はすでに以下のように書いた。
「1941年12月13日、病死と言うドイツ語で書かれた電報が、広島県呉の留守宅に届いた。死因は脳溢血であった。」
この死亡日は親族の間で語り継がれてきたもので、書かれたものはなかった。それが今回ぴったり符合した。また呉市出身であることもだ

さらに在留民の死亡などの連絡は、普通は担当である領事の名前で行われるが、杉本の場合は大島大使の名前で電報が送られたという。
「あけぼので杉本は、店の奥で大島大使と親しげに話していたと語ってくれた人もいた。」という話の裏付けになろうか。

この史料の発見を親族の方にお知らせいたら、とても喜んだことは言うまでもない。
(2019年5月15日追加)

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