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欧州邦人気になる人 第8回 
浅田スマ子・戦後初の”サロン”をパリで開いた女性
Sumako ASADA

大堀 聰

<序>

筆者が浅田スマ子の名前を知ったのは芹澤光治良(せりざわこうじろう)の『パリで会った日本人』という一文であった。
日本が国際社会に復帰する前の1951年、スイス、ローザンヌで開かれた国際ペン大会にオブザーバーとして参加した芹澤は、かつて留学したパリに寄る。そこでは浅田スマ子という女性が自分の汚いアパートで、数少ない日本からの留学生を相手に安価で日本食を提供していた。それを筆者は『パリの日本料理店 牡丹屋をめぐって』で紹介したが、この戦前からパリに住みついていた浅田スマ子という女性に、筆者は興味を持った。

その後浅田に関する情報は断片的にしか集まらなかったが、戦時中パリに暮らした福岡(旧姓市川)澄子さんから、芹澤は浅田をモデルに『巴里夫人』という小説を書いているという話を伺った。早速目を通すと、そこでは主人公は浅田(アサダ)夫人ではなく、一字変えたアイダ夫人となっている。一方カタカナで書かれた他の登場人物も実在する人物であることが判明した。本編では情報のない部分をこの小説に頼るという危険を冒しつつも、浅田スマ子の一生に迫る。尚本編では小説から借用した場合はアイダ夫人、一方証言等の史実によるものは浅田夫人と書く。


<生い立ちから渡仏まで>

この部分が一番、事実との照合が取れない。小説の発表時は日本に関係者が多く存在したので、全て仮名を使ったと推測される。
アイダ夫人は名古屋の旧家に生まれるが、実は父と芸者との間に生まれたことを大学生の頃に初めて知る。名古屋の一流実業家の跡継ぎと結婚して子供も生まれるが、夫は芸者遊びを止めない。これは自分もそうした境遇から生まれたアイダ夫人にはとても辛いことであった。

アイダ夫人は中断していた洋画と、英語とフランス語の勉強を始める。英語は貿易商のイギリス人から習うがそれが元で、警察からスパイの嫌疑を受ける。これを知り激情した夫とは別れる事を決めて、子供も残し、離婚の手切れ金でパリに絵の勉強に向かう。
(アイダ夫人はこの時、30代後半だ。)


<パリへ>

世界戦争の危機の頃(1938年9月のミュンヘン危機の頃?)日本郵船の欧州航路でマルセーユに向かう。実の母と世話になった市川画伯夫妻だけの寂しい見送りであった。

船ではパリに向かう野村海軍中佐と知り合う。インド洋に入ったころ、中佐と面白い会話がなされる。
「奥さん、インド洋に入ったら、奥さんはなるべく甲板に出たり、サロンに出たりしない方がいいですな。お気づきではありませんか。日本の男性はだんだん動物になりますよ。インド洋にかかる頃になると、目の色まで変わりますから、用心するんですな。何しろ、栄養はよし、運動不足で、精力のやり場がないので、無理はないけれど、、、」
これに対しアイダ夫人は
「私も気が付いていました。船客の目が私に絡みつくようなことに。私が甲板に出ると、必ず数人の船客が私の後について甲板に出るんです。」と心当たりがあった。
(筆者は欧州航路についても調べているが、このような日本男性に関する証言は初めてだ。また想像力だけではなかなか書けないエピソードである。)


<パリの生活>

パリでは日本で世話になった市川画伯のかつて住んだアパートに住み、グランド・ショミエール芸術学校(モンパルナスに実在する)に通う。戦争が迫ってきて学校に通う外国人生徒は減り、自分のクラス、ロート先生の所では私一人になる。

(1939年8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると)誰もが戦争を覚悟した。そこ頃、パリに着いて以来初めて日本大使館から手紙を受け取る。謄写版の紙に国際関係がひっ迫しているから、公務を持たない日本人はすべて一刻も早く帰朝するようにという、冷たい勧告状であった。
スマ子はその紙を見て1時間以上ぼんやり考えを巡らせた。

日本へ帰ってどう生きられるか?元夫からもらった手切れ金は、もうほとんどなくなりそうである。絵画で食べていく自信はあるか?帰国したならば親類縁者は寄ってたかって私を再婚させようとするであろうなどなど、思いを巡らせたたが、決心はつかなかった。

その後フランスで国民の動員があった日、アパートのマダムも「戦争だ、戦争だ」と叫ぶ。アイダ夫人は慌てて和服に着替えて大使館に向かう。
「至急連絡を取るように通知した時、なぜ来なかったんです。もうパリに用のない日本人はみんな引き揚げてしまったんです。戦争になってどうするんですか?」と書記生らしきが、困り切った日本女性を頭から怒鳴った。
(当時普通の在留国民に対する接し方が高飛車な日本人外交官は多かった。)

アイダ夫人と同じようにパリの街に隠れていたような日本人が、たくさん部屋にいた。フランス人と結婚した日本人の奥さんであろう。逆の立場のフランス婦人も交じって、みな不安そうに落ち着きがなかった。

船で一緒だった野村中佐は今は大佐となり、フランス駐在海軍武官であった。大佐に困った状況を伝えると、古城の前の丘の上のレストランに食事に誘ってくれた。そこは(1939年9月3日の対独宣戦から)3日目でも開いていた。
(細谷資芳フランス駐在海軍武官は面倒見がよく、日本からの留学生をパリ郊外の高級レストラン・ハーディに招待したりしている。)

こうしてアイダ夫人は海軍武官室で働くことになった。事務員か秘書のような単純な仕事であった。彼女は美しく、時々和服で出勤したりして、日本軍人に里心を起こさせたり、大和なでしこはさすがにいいと感嘆させたりした。

大佐のいる間は食料などにも困らなかったが、大佐がスイスに行ってしまうと、彼女も大佐のアパートを追い出される。
(細谷海軍武官は1943年10月5日、フランスのブレスト港を出港した日本海軍の伊第八号潜水艦に乗り込み、帰国する。)


<証言1>

1942年4月にパリの日本人会が作成した1942年1月下旬の「在留邦人住所録」によれば、浅田スマ子の住所は”25. n ヴァヴァン(Vavin)パリ6区"である。浅田夫人の不思議なレストランがあったのもヴァバンである。この後ここを一度出て、また戻ったのであろうか?

戦争中、三菱商事の市川保雄家が浅田を時々食事に招いていた。駐在員は経済的に恵まれていたので、身寄りもなく暮らす日本女性の援助を兼ねていたのであろう。当時小学生であった市川澄子さんは
「浅田さんはとてもきれいな日本語を話す方で、学習院の出ではないかと思った。」と筆者に語ってくれた。育ちの良さを彷彿させる。澄子は浅田夫人が学習院出身かと想像したが、小説のアイダ夫人は東京女子大に通う。

『巴里夫人』の存在を教えてくれた澄子さんは、浅田夫人は小説のうらぶれたアイダ夫人のイメージとは重ならない部分が多いと筆者に語った。


<パリ残留、ベトナム人に>

アイダ夫人はマダム・マルケのアパートに戻るが、そこは売春宿の様な場所であった。
(1944年6月に連合軍がノルマンディに上陸しパリに迫って来る。)
マダム・マルケはアイダ夫人に
「だから、マダム・アイダの安全のためには、アルジェリア人か、安南人になる方が良いと思いますが。」とアドバイスした。
「安南人のパスポートや書類を買えばいいのです」と言って、マダム・マルケが実際に闇市場で手に入れて来てくれた。
(安南はベトナムのことで、フランスの植民地であった。またこのベトナムのパスポートの話を裏付ける別の史料は見つかっていない。)

こうして連合国によって解放されたパリで、アイダ夫人は日本人であることが発覚しないか恐れ、震えながらもっぱらアパートに留まった。しかし当時のパリではベトナム人を誰も雇おうとはしない。売り子にもなれなかった。部屋を借りている東欧、イタリア、スペインなどからの女性たちは餓死する代わりに売春をした。アイダ夫人もこうした外国人女性と似たような生活をしたようだ。


<証言2>

1942年6月ごろフランスに赴任した重光晶官補(後のソ連大使)は、1944年8月にパリからベルリンに向け邦人が集団で避難するに際し、ひとりひとりを訪問した。

「パリには日本からの駐在者を除けば、50人ほどの在留邦人がいるだけです。多くは30年、40年とフランスに住みついている人達で、日本に親類、縁者のいない人もいます。

我々はこれらの日本人の家を、いちいち訪ねて回りました。金持ちのフランス人のコックをしている人、小さな木工店をやっている人、中にはどう見ても夜の商売としか思えない夫人もいました。」

パリに残留した単身の女性は浅田と留学生の片岡美智だけであった。従って重光が書いた”夜の商売としか思えない夫人”とは、間違いなく浅田夫人であろう。
また浅田夫人はベトナム人になることで抑留を免れたが、大使館の指示に従わずにパリに残った他の日本人は、警察の刑務所に入れられる。


<苦労>

食べ物がなく、2,3日水だけで生きていた時、かつて通った学校グランド・ショミエールに近い下宿の地下室に、たくさん描いたカンバスや、まだ描かないカンバスを預けてあることを思い出した。数年前ドイツ軍が侵攻してくるというので、慌てて地下室に入れて野村大佐の元に向かった。あのカンバスや画があったら安く売れないだろうかと考えた。日本人であるという事を気付かれないため、暗くなってから下宿に行ってみたが、アパートのオーナーが代わったようで、事情を話しても地下室に入れてもらえず、すごすご引き返す。


<証言3>

フランス人の妻が身重で、パリに留まった画家の板東敏雄は、日本人が手持ちの荷物だけ持ってベルリンに去った時、処分できなかった家具類を預かった。そして戦後までそれらをしっかり守った。一方浅田夫人は彼らから預かった家財を、その後売って生活費の足しとしたと書いている。これは已むに已まれぬ生きるための方策であろう。

また数少ないパリに残った日本人による句会にも、浅田夫人は参加している。全く日本人とは交渉がなかったというわけではなさそうだ。


<日本食堂を開く>

アイダ夫人は戦後、ベトナムの女としてパリで果てるのを気安く思っていた。しかし戦後数年たつと、また日本人がポツポツとパリにやってくるようになる。

1950年晩秋の夕べ、戦後初のパリ留学生の桶谷繁雄は、ばったりアイダ夫人と会う。桶谷は戦前にもフランスに留学していたことがあり、その時から面識があった。彼女は痩せてうらぶれていた。この女性が武官室の女王のように振舞ったアイダ夫人であろうか?アイダ夫人は自分のアパートに桶谷を食事に誘う。彼女はそこの3階の小部屋を借りて、長く住みついて、宿の女主人の話し相手になっているという話であった。

途中モンパルナスの裏のロシア人の小さい店に寄って瓜の酢漬けを買ったが、その店に”このわた”や、日本人の好く食料品があると自分の事の様に自慢した。

アイダ夫人は数年ぶりに日本語を話すので、嬉しさに油紙に火が付いたように一人で話した。桶谷は
「アイダさんが迷惑でなければ、毎日、日本食を作ってくれないかな。大学都市に日本の留学生が数人いるから一緒になるけれど。アイダさんも損のないように一食いくらと取ったら、みんな助かるんだがなあ」と提案し、アイダ夫人はそれを受け入れた。

アイダ夫人は一定の収入を得る事になると同時に、ベトナム人から日本人に戻る。桶谷繁雄は実在する東大の教授だ。この頃以降のアイダ夫人は全て浅田夫人に置き換えて問題ないと考える。


<芹澤光治良パリへ>

冒頭に紹介した芹澤光治良パリにやってくるのは1951年の事だ。エールフランスでロンドンからパリに着く。やっと20数年ぶりにパリに着いたと、僕は大きく吐息した。マロニエの花はもう散って、晩春の午後の事であった。

空港の地下道を同行の石川君たちと上がって行くと、出口に数人の日本人が集まって迎えてくれた。こんなにパリに日本人がいたのかと驚いたくらいだ。高田博厚氏、笹本駿二氏、桶谷氏らであったが、僕は誰にも面識がなかった。そこに不思議な日本婦人がいた。パリの日本婦人らしく気取ったところがなく、服装や化粧にも無頓着で、黒髪を小娘らしく紫のリボンで束ねている。30代であろうか、40代であろうか、年齢も分からない。パリの街の中で靴下も履かずにサンダルという不謹慎な軽装、これがアイダ夫人であった。

『パリで会った日本人』という一文を残している。こちらは小説ではなく紀行文なので事実だ。それによると
「初めてヴァバンの不思議な家へ行った。それは連れ込み宿のようなホテルの台所であった。そのホテルに浅田さんという日本の54,5歳の夫人が、一部屋借りて住んでいる。

その人が、そのホテルの女持ち主に頼んで、せまい台所を借りて、そこで日本食とも洋食ともつかない手料理を作って、日本人に一食150フランで食べさせている。他では300フランですませることすら困難である。」

「そこで、私は日本の立派な人々と沢山知り合った。東大教授のミズシマさんと、キタモトさん(北本治)、京都大学のミヤモトさん、早稲田を出た建築家のヨシザカさん(吉阪隆正)、労働法の研究のハットリさん、化学者のヤギさんなど、最初の晩に浅田さんの家で会ったように思う。」
彼らは戦後初の日本からの留学生だ。 またアイダ夫人は名古屋の女学校を卒業するが、この紀行文では”神戸の有名な女学校を出る”と書いている。


<日本人サロン>

芹澤には1食150フランの安価な日本食より、そこに集まる日本人に興味があった。
みな敗戦後、専門の学問のおかげで、フランス政府に招かれて留学している、立派な学者や芸術家ばかりで、人間としても素晴らしい人々であった。その人々が1日の勉強の後で、楽しく夕食をともにしながら、雑談をするのは、パリの真ん中に日本人の共同の広場が出来たように感じられた。

1951年にパリに滞在した日本の学者には、モンパルナス裏の淫売宿の不潔な台所が、楽園の様な思い出として一生残るであろう。大実業家のフジヤマ氏(藤山愛一郎)や大女優のデコちゃん(高峰秀子の愛称。1951年6月にパリを訪れる。)も、掃き溜めの中に降りた白鶴の様に、この台所に現れて、欠けた皿に盛ったオムレツを古い箸で食べたことがある。
日本の大使館、出先機関もない時代のサロン・浅田の出現であった。


<フランス大使館再開>

次も芹澤の手記だ。
「1951年7月14日
この日、日本人に忘れられないことは、アベニュー・オッシュにあった日本の大使官邸が日本に返って、萩原事務所長があばら家になっていた官邸の一部に手を入れて、ここにパリにいる日本人を集めてカクテル・パーティーを催したことである。日本が戦後初めてパリに腰をおろしたような喜びであった。集まった日本人は5,60人もあった。」
戦後まもなくして、日本人は再び次々とパリに向かった。『戦後初の渡欧者を求めて』参照。9月8日に日本はサンフランシスコ条約に調印して、国際社会に復帰する。

一方のアイダ夫人は「私はただ在外事務所(大使館の前身)は困りますけれど、、、。」とか
「でも、私は日本人ではありませんわ。ベトナム人です。日本の外交機関から無視されてるんですもの」と大使館には寄り付こうとしない。


<巴里に死す>

芹澤は間もなく日本に戻るが、パリを訪問したのと同じ1951年の暮れに、アイダ夫人が急死したので、パリの日本人は、気軽に集まれる場所を失った。アイダ夫人が亡くなった時、火葬にすることまで最後の面倒をみたセキグチ(関口俊吾)画伯は、その死を僕に伝えてきた時、
「ここにもう一人、巴里に死すが出ました」と嘆いていた。
『巴里に死す』とは、芹澤がそれ以前に書いた小説の題名であるが、若い関口の手紙を読んだ時、芹澤はもう一つ、『巴里に死す』を書かねばならないことを悟った。それが死者との約束であったと。

芹沢がアイダ夫人の願いを聞いて『巴里夫人』を出版したのは1955年の事であった。それからすでに65年が過ぎた。そのモデルである浅田スマ子は再び忘却の彼方になったので、筆者は小さなペンライトにでもなればと思い、本編を書いた。
(2020年6月15日)


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