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石垣綾子日記に見る、終戦直後の渡米日本人

<序>

石垣綾子は1903年生まれで1926年に米国に渡り、反戦・社会運動に参加する。翌27年に画家、栄太郎と結婚する。戦争中もアメリカに滞在し、日本兵に対する反戦の呼びかけを行った。

終戦直後のアメリカの邦人社会では、重鎮のような立場であったのではないか。渡米した邦人はかなり綾子と会っている。その彼女の日記から、どのような訪問者があったのか、見ていく。そしてカッコ内に筆者のコメントを添える。

戦後現役の新聞記者として初めて欧米を視察した高田市太郎によると、1948年時点で、アメリカの邦人及び日系市民数は、概数35万人。うちアメリカ本土に17万7000人あまり、石垣の住むニューヨーク市とその付近は4500人となっている。これらの邦人が、終戦をアメリカで迎えた。これだけ多くの日本人が社会に溶け込んでいたのは、欧州とは異なるところである。この人たちも石垣の日記には多く登場するが、ここでは題名の通り、日本からの渡航者主体に絞っている。また日記には登場しないが、終戦直後の他の渡米者についても、筆者が調べた範囲で載せていく。


<1946年>
 
1月2日 
南博氏来たる。日本行きについて相談する。
(南博は日米が戦う間もアメリカで留学を続けること認められた、稀有な存在である。つまり戦後の渡米者ではない。彼は戦後間もないこの時期、日本への帰国を検討していた。)

7月23日
鹿地亘 「我ら7人」のブックレビューを、井上氏より頼まれる。井上氏は日本の新聞社から委託を受けていた現地雇いの通信員。(鹿地亘は戦時中は中国で反戦活動に従事した。戦後の渡米者ではない。日本の新聞社は敗戦1年を経たずして、アメリカに通信員をおいている。―筆者)

7月28日
修道会にて午後2時より「植村環先生の集い」に出る。
「宮城前に、事もあろうに毛布を広げて娘たちはGIと戯れる、、、」と日本の話を聞く。
(植村は日本で2番目の女性の牧師で、婦人運動家。1946年4月22日の朝日新聞は「終戦後初の渡米。祈りの旅へ」という見出しで、彼女こそが戦後初の渡米者であると書いている。植村は12月3日にはトルーマン大統領と会見する。

さらにアメリカ滞在中に植村は、スイスのジュネーブを訪問している。最初の渡欧者でもある可能性が高い。
付け加えると植村は1947年4月12日、ゼネラル・ゴルドン号で帰朝する。この船は日本とアメリカを往復していたようで、他にも何人かの留学生が利用している。日本に戻った植村は皇后、皇女たちに聖書を教えるバイブルクラスを毎週行う。

8月9日
早川を知る。彼は日本人であることを全く認めず、アメリカ人の間でのみ交際する。
(戦前ハリウッドでトップスターであった早川雪洲は、終戦をパリで迎えた。その後間もなくしてハリウッドに移ったようだ。復帰作は1949年でアメリカ国籍を持つ。)

8月21日
夕飯をリリー・エデルマンと「都」で食べる。リリー、松本亨のことを話題にする。
(終戦から1年、すでに日本食レストランがニューヨークにあったのは興味深い。「都」については冒頭で紹介した高田市太郎が、詳しく書いている。下参照)

松本亮もアメリカ残留派であるが、石垣はあまり好意的には書いていない。また松本は終戦直後は西村伊作家の娘たちの留学に奔走している。そして自著「兄弟は他人の始まり」(原文は英語)の中で、「自分の知る限りでは、戦時中は日本にいた日本人で、戦後最初にアメリカに来たのは西村ヨネ」と書いている。

9月9日明日より、葉書と小包を日本に送ることが可能。
(綾子はそれまでは、日本を行き来するアメリカ人に手紙を託していた。)

9月13日 国際婦人会議。日本から植村環氏が代表として参加することになっていたが、その日はどうしても来られず代わりに現地にいる(石垣)綾子が日本代表として出席。(先述の植村が、この参加出来なくなった理由は不明)



<日本食レストラン 都>

そのレストラン都について書かかれたものには、以下のようなものがある。
 
ニューヨークの有名なすき焼き屋。戦前は日本人相手であったが、戦争の中期からどんどんアメリカ人の客がつき、終戦後は昼も夜も押すな押すなの大盛況で9割の客がアメリカ人である。戦時中、敵国で都は大きくなった。(高田市太郎)

スイスでのMRA世界大会に出席する社会党初代書記長片山哲は、アメリカ経由で渡欧する。
「ニューヨークでは初めて日本料理”都”の主人公特別の骨折りで、盛大な歓迎会を開いてくれた。」と自著に書いている。(1949年7月ごろ)

1954年4月ごろ、料理家、美食家として名高い北大路魯山人は同店を訪問した。
魚と言えば、国連大使沢田廉三さんの公邸でご馳走になったシーバスの刺身も、ちょいと日本にも例がないくらいおいしいものでした。
ここで相当名の知れた「都」という日本料理店。すき焼きが出ましたが、お相撲さんのちゃんこ鍋同然で、何もかもごっちゃに煮るには驚きました。聞いたら、ご主人は新潟生まれ、東京も京都も知らず。参考のために、僕がすき焼きの模範を示したところ、
「へえー、すき焼きというものは、こういう風にして作るものですか」と、目を丸くしていました。(芸術新潮 1954年7月号)

故ダニエル・イノウエ上院議員の命を救った衛生兵 YEIICHI桑山"ケリー"
ケリー桑山氏は1918年6月1日、ニューヨーク市マンハッタンに生まれる。父親はニューヨークで初めての日本レストラン「都レストラン」を経営していた
(ニューヨーク 日系人会 ニュース)

海外の日本食レストランに興味を持つ方はこちらもどうぞ。


<1947年>

帰りに南氏らと4人で東洋館にて日本食を食べる。
(東洋館は戦前、ロンドン、ベルリンにも同名の日本食店があった。またこの年は日本からの訪問者はなかったようだ。)


<1948年>

1月23日
前田ギフトショップの家に行く。日本人が30人ばかりいたろうか? いずれも商売などをして、相当に成功している部類の日本人。(この日本人30名とは戦前の移民、2世の人が中心であろう。)

1月27日 
夜 ジミー・デューガンがGIとして日本にいて、日本の娘、君子さんと結婚し、ちょうどニューヨークに来たところで、家へやってきた。この夫婦はきっとうまく行くだろう。日本人の食料店、料理屋のアドレスをあげる。
(1947年7月 「日本人花嫁法」というのが制定され 米兵の配偶者、子供、婚約者の米国入国が認められるようになった。君子さんはこの法律によって渡米した初期の日本女性であろう。)

付け加えるとドイツ大使として3国同盟に署名した来栖三郎と、その夫人アリスの間に生まれた次女輝(テル)は、1947年にGHQに勤務していた米国人フランク・ホワイトと軽井沢で結婚。1948年12月にアメリカに渡った。(「軽井物語」宮原安春より)

10月24日 
仏教会にて高田市太郎の日本に関する講演あり。毎日新聞記者。
(すでに述べた高田は毎日新聞勤務、戦後最初に海外渡航を許された日本の現役報道人として、欧米を6ヶ月にわたり訪ねた。

自著「風雲の欧州を見る」のはしがきに次のように書かれている。
私は、今度の第二次大戦後、最初に海外渡航を許された日本の現役報道人として、欧米を6ヶ月訪ねる幸運に恵まれた。昨年10月9日東京の羽田を太平洋横断機で飛び立って、本年(1949年)4月4日羽田に飛び帰るまでアメリカに5ヶ月足らず、英仏に1ヶ月あまり滞在。
私はマッカーサー司令部と、アメリカ政府の好意ある許可を得た以外は、いささかの制約も受けない。

11月29日
同志社大学の松井七郎博士がタウンホールで講演。戦争中は日本で教員。アメリカの背景があるので、困難な時をもった。
(松井は1948年9月 アメリカ国際教育協会訪問教授として渡米で期間は半年。ついで1949年1月、ロックフェラー財団研究員としてアメリカの労使関係を視察。期間1年。
松井も前述の植村も高田もみな、戦前にアメリカの大学を出ている。先ずはそういう米国通の人が派遣されたのであろう。また学者は何人くらい、すでに渡米していたのかは不明。)


<朝日新聞に見る留学生>

戦後、留学生がアメリカに向かうのは1948年に入ってからである。当時の朝日新聞を探ると以下の様な記事が見つかった。

1948年4月1日 
「海外留学も可能 米紙クリスチャン・サイエンス・モニター紙極東支配人は語る
さらに留学生実現 案外早く再会されるのではないか。」
この頃正式に留学が可能になったようだ。

1948年4月9日 
「候補者21人のうち、数人が留学を認められる予定、
9月頃までに留学できるようになるという。」
実際に誰が留学できたのかは不明である。

1948年5月7日 
「留学2女性 アメリカへ
樺島敏子  勝一画伯長女 ミシガン大学へ昨年奨学金を申請
三井直子 啓明学園 三井高維氏長女 スウオスモア大学」
相当恵まれた子女であることが分かる。

1948年5月27日  
「米国へ留学生 アメリカ留学の門が開かれ、次々と明るい話題を投げている。

松本康夫氏個人の計らいで6名の男女留学生が8月、旅費も支給されてアメリカン・プレジデント・ラインの船で渡航することになった。ロリンス大学には、ポルトガル経済史を専攻する上智大出の(判読出来ず)と美学専攻の西村クワさんの2人。」
西村クワはこちらを参照)
(この項2016年10月5日追加)


<三姉妹そろって留学>

1949年7月1日の『時事新報』に「三姉妹そろって留学」の見出しで、「文化学院の西村さん 写眞右からソノ、ナナ、クワさんの三姉妹」というキャプションの添えられた記事が出る。西村伊作の3人の娘たちの渡米の経緯は以下のようだ。(彼女らの姉である西村ヨネについてはすでに触れた。)

まずは4女の西村ソノである。1947年7月4日、アメリカの独立記念日にソノは「ブラインドデート」に誘われる。ブラインドデートとは事前に相手のわからないいわゆる見合いであった。そしてその相手がアメリカ空軍に勤務するカール・ベガ−トであった。その後交際が続いたが、1年半ほど経った1948年、カールに帰国命令が下った。この時、ソノは留学目的で、同年カールと一緒に渡米した。

前述のニューヨークに滞在していた松本亮が、ティーチャーズ・カレッジの奨学金の手続きを取り、渡航費用等はカールが面倒を見た。そしてカールの勤務先ヒューストンで挙式を挙げたのは1950年4月15日であった。

当時は日本に駐留するアメリカ軍人と日本人女性が結婚した後、夫にアメリカへの帰国命令の出るケースがあった。彼女らのため1947年7月 「日本人花嫁法」というのが制定され 米兵の配偶者、子供、婚約者の米国入国が認められるようになった。1960年代にかけ、延べ5万人が嫁いだという。

もちろんソノの場合、渡航目的はあくまでも留学である。文化学院の学長秘書として、駐留アメリカ軍と強い関係を築いていた。高松宮が米軍の交換を招いた際、ソノもその場に呼ばれたりしている。よってその伝手で渡航が実現したのであろう。


ソノが帰国直後の1946年、軽井沢にて。左からソノ、伊作、クワ(6女)八知(3男)


<5女 ナナ>

5女西村ナナは1948年アメリカに留学するが、同年11月4日朝日新聞に「伊作5女、西村ナナさん渡米」という記事が出ている。新聞に載るほどの出来事であった。横浜出港のアメリカの貨物船フレデリック・ライクス号で向かった。当時は客船がないので、いくつかの客室を備えた貨物船で渡米するのが主であった。そして「たしかパスポートナンバーは一桁の数字であった」と本人は回想している。

ナナの触れた当時のパスポートについてであるが、確かにサンフランシスコ条約締結前も発行されている。ただしそこには常套文句の「保護要請文」は記載されず、「連合国最高司令官によって許可された日本国民であるに相違ないことを証明する」とのみ記述されていた。

そして1951年には、現行の旅券法が制定され、旅券の発給権が回復した。この時のパスポート第1号はサンフランシスコ平和条約に渡米した吉田茂に発給したものであった。(1951年8月20日発行)


大磯の旧吉田茂邸にそのパスポートのコピーが展示されている。(筆者撮影)

ナナは婦人倶楽部の1949年4月号に「海を渡った留学生のアメリカだより:「船中の日記」から」という記事を寄稿しているが、そこにはあと2名の日本人留学生が紹介されている。一人は糀島敏子、GHQの女性対策を担当したミス・ウィード中尉の通訳をすでにしていた。もう一人はバイオリニストの江藤俊哉である。

同年10月ナナはオランダ人将校ニコラス・シェンクとニューヨーク郊外の教会で結婚式を行う。遠縁にあたる松本亭(まつもとりょう)が、牧師をしており便宜を図ってくれたという。何度か本編に登場した松本は、日米戦争中もアメリカに残留している。日米開戦と共に抑留されるが、後に仮出所し、1944年日系人再転住委員会主事補に就任した。戦後はNHKの「英語会話」の講師として活躍する。


6女 クワ>

さらに6女のクワも同時期にアメリカに留学している。「自分は絶対に世界をまず見て回ってからでなくては、家庭に入りたくない。」と考え、あらゆる大学でスカラシップを出してくれそうなところに手紙を書いた。

フロリダのカレッジから入学許可を得たクワは渡航方法に関し、誰かがライクス・ブラザーズという貨物船の会社が留学生を無料で乗せてくれるということを教えてくれた。横浜の支店にも頼みに行ったりしたあげく、その貨物船に乗れることになった。
フィリピン、ジャワに回って荷物を下ろしたり乗せたりして、太平洋を渡ってアメリカにたどりついた。

西村伊作は娘たちに海外留学を薦めたが、入学手続き、渡航費用の手当等は自分で手配させた。非常にユニークな一家である。

クワの書いた「光の中の少女たち」にはアメリカで出会った日本人を書いている。その一人が音楽家のオノ・ヨーコである。クワが学校経営者の娘として、ニューヨーク郊外の学校を見学した際、生徒の中にひとり、目がきらりと光る日本人の女の子がいた。
「西村さんて、軽井沢でお会いしたんじゃないかしら。私は小野ヨーコと言って、父は東京銀行のニューヨーク支店に来ているの」とすごく社交的なお嬢様であった。東京銀行も戦後最初に海外に出た会社の一つである。
(追記:2017年8月19日に放送された「ファミリーヒストリー」では小野家は長野県佐久に疎開との事)

オノは1953年にサラ・ローレンス大学に入り、詩と音楽を学んでいる。また軽井沢に縁があった。戦後は1976年から4年間、避暑のためにジョン・レノンと軽井沢に滞在したという。そして万平ホテルのカフェで、ジョンは好物のロイヤルミルクティーを注文した。万平ホテルと西村家の別荘は、目と鼻の距離である。

またアルバイト先で“タマ子”という女性と知り合ったが、彼女は「石橋ブリジストンの娘さんで質素に生活をしていた。」と書く。創業者石橋 正二郎の4女であった。朝吹登水子の「私の軽井沢」によると多摩子は1945年3月10日の東京大空襲の後、軽井沢に疎開し、東京府立第三高女から小諸高女に移った。千曲川に素足で入り、砂利を採取する作業の毎日を送った。

こうしてみると軽井沢に疎開していた恵まれた環境の女学生が、終戦とともにアメリカ留学に向かったという構図が見える。西村家の留学は学問を究めるためというよりは、見聞を広めるための留学であるという点も興味深い。

クワは次のようにも書いている。
「私が泊まっていたインターナショナル・ハウスにいた苦学生たちにはアルバイトをしている人が多かった。若い天才ヴァイオリニストの小林健次は学生食堂でパイを切って皿に乗せていたし、ピアニストの平田ミチは売店で週に何時間か働いていた。」


<今村貞子>

この頃の留学生の記録を見てみる。1947年8月、今村はあるアメリカ人より、ぜひ盲人教育についてアメリカで勉強しなさいと勧めらた。聖心女子大学(横浜)の1年に在学中のことであった。彼女の父親は横浜訓盲院長をしていた。そして1948年9月9日、羽田からアメリカの旅客機で日本を後にした。

その飛行の様子が「アメリカ便り第一信 飛行機の中から」(少女の友 1949年2月号)に書かれている。

「とうとう出発いたしました。ああ、もうこれで5年間は、私の好きなあの6人から離れるのだと思ったとき、涙がぽろぽろでました。」
食事は飛行機酔いでとれなかったが、隣の紳士の料理をのぞいてイラストにした。そこには「ビフテキ、揚げたジャガイモ、トウモロコシ、すごくふわふわなパン」などが記されている。

周囲の好意であろう、現地で音盤に自分の声を吹き込んだものが、航空便で横浜の家に届けられ、それを文字に直して同誌で紹介された。この頃すでに音のメッセージがあったのに驚く。

留学の様子は日本の母親に語りかける体裁をとっている。これは後の新田まり子の「サヤの手紙」も同様である。また時代は少しさかのぼるが、今西汎子「巴里より愛する母へ」もある。当時の一つのスタイルであろうか?
(2016年10月5日)


<犬養道子ー評論家、犬養毅の孫>

1948年 秋のある夕方、私は一留学生として、ボストンに向け出発した。当時、アメリカからの試験なしのプライベートスカラシップ(奨学金)は相当出ていたから、まずそれを受けることにした。

アメリカまでの旅費は、これもまたあるドイツ人の力添えで、オーストラリアやアメリカの友人が出してくれた。しかし、出してくれたのが、いったい誰と誰と誰であったか、私には今以て分からない。
(「お嬢さん放浪記」より)

当時は奨学金を出している学校が沢山あり、留学希望者は日本から大学に直接手紙を書いて応募したようだ。また誰だかわからない篤志家の援助で渡米というのも興味深い。


<国際会議>

また日本人が初めて国際会議に出席したのは、1948年にロスアンジェルスで開催された、MRA(道徳再武装)世界大会であった。
「戦前からMRAと接触のあった元駐米大使、外務次官堀内謙介、三井高維(三井財閥一族)、相馬恵胤(相馬子爵家32代当主)各夫妻をはじめ約10名の日本人が渡米し、ロサンゼルスにおけるMRAの会合に参加した。 」(MRAホームページより)

戦後初の国際会議で10人参加とは、ずいぶん大人数の派遣であった。渡航費用はもちろんMRAの負担であろう。翌1949年のMRA世界大会はスイスで行われ、社会党初代書記長片山哲他が参加している。


<1949年>
 
石垣の日記に戻ると5月22日 ひどくふる雨の中を、藤田嗣治をホテルに会いに行く。彼は日本より最初の亡命者なり。今に彼のような反共者は、続々アメリカに亡命して来るであろう。

(戦前のフランスで活躍した画家藤田はこの時、戦争協力に対する批判に嫌気がさし、日本を去る。フランスに行くのに欧州定期航路がなく、アメリカを回ったのであろう。)

藤田のアメリカ入国はフランク・シャーマンというアメリカ人の尽力によるものであった。1945年11月に東京にやって来たシャーマンは、米軍のためのパンフレットや歴史ドキュメントを作成するスペシャリストであった。
彼の根回しで藤田は戦争犯罪人としての指名を逃れ、(アメリカに対する)功労者向けのビザを得ることができたという。
(『藤田嗣治とは誰か』より 2018年1月24日追加)

7月11日 芳賀氏、電話にて「日本から初めての婦人記者来たれり」という。高木とみ子という。「婦人倶楽部」等の通信員。
(高木は「新編み物全書」とかを書く、洋裁研究家。)

11月18日 湯川秀樹博士ラジオ放送に参加。
(湯川は1948年、プリンストン高等研究所の客員教授となる。そして翌年、日本人として初めてノーベル賞を受賞する。このニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えた。)


<1950年>

1月10日 大陸商事に行って、日本よりの新聞に一通り目を通す。
(大陸商事の詳細は不明)

3月11日 京都大学総長、鳥養(利三郎)、慶応義塾大学学長、潮田(江次)の二人の午餐会「都」にてあり。会する日本人は50人。
(日本の名門2大学の学長が来て集まるのが、日本人レストランというのも興味深い。)

3月14日 津田塾学長 星野愛子の歓迎会。

6月14日 夜、巖本真理のコンサートをタウンホールに聴きに行く。日本人が聴衆の3分の1。本人は混血であることを隠したがった。
(巖本真理はバイオリニスト、父親はアメリカ人だが戦争中は日本に留まる。やはり日本人の間で人気が高かったようだ。)

8月8日
日本海外事務所長、寺岡洪平氏に逢いに行く。
佐藤敏人より前に通知があったから、その関係で挨拶をするために、42丁目のリンカーン・ビルの42階に行く。
寺岡所長は37,8歳。洒落た文化的な美男子。これならばエチケット一点張りの吉田首相の(好みの)試験にはパスする。

「奥さん(石垣のこと)は個性のあるみなりをしていられる。ヨーロッパ的なところがありますね。」と寺岡は語った。
綾子は「ほめられたと言うことにしておこう。」とコメントした。
(寺岡は初代所長として、外務省より派遣。また料理研究家のバーバラ寺岡は寺岡所長の長女。佐藤敏人は戦前のサンフランシスコ総領事。日本の外交官として戦争遂行側にあった寺岡は、終始戦争に反対していた石垣を、内心どのような気持ちで迎えたのであろうか?)



<1951年>


3月1日
夜、小松ふみ子氏来る。彼女は、世界各国より来た芸術家の19名グループの一人にて、国際教育協会の招待を受けた。
作家として日本より来た、唯一の人。
(小松の渡航について朝日新聞は書いていない。このころには渡米だけでは記事にならなくなったのであろう。彼女について興味を抱いた石垣は、日記では一番くらいに、沢山のスペースを割いて書いている。詳しくは別項で紹介する。こちら
また日本がサンフランシスコ条約に調印し、国際社会に復帰するのが1951年9月8日である)

以上が主として石垣綾子日記から読み取った終戦直後の渡米者の姿である。今後付け加えていく。
(2016年8月25日)


<岸川絢子>

雑誌「少女世界」1949年11月号に「アメリカへ渡った少女 天才少女ヴァイオリニスト」
とて紹介される岸川は「諏訪根自子以上の実力を発揮されると、期待されています。」と褒めちぎられ、翌1950年1月ゼネラル・ゴードン号でアメリカに向かう。

日本では小野アンナ先生についていたのは諏訪根自子の少女時代と同じである。またアメリカではカーチス音樂院でジンバリスト教授に習った。1年ほど前、江藤俊哉もジンバリスト教授のもとに留学している。


<新田まり子>

知り合いのアメリカ人夫妻に保証人になってもらう手はずでアメリカにやってきたまり子は、奨学金を得て留学したわけではないため、経済的な援助は一切なく、学費も生活費もすべてまり子自身の働きによらなくてはならなかった。
(「サヤの手紙 ある留学生のアメリカだより 1951年発売」より)

彼女の父親は三井物産に勤務し、まり子も海外生活の経験があった。相当裕福な家であったと思われるが、敗戦直後の日本では、外貨(ドル)を入手することはできなかったのであろう。

「太陽にかける橋―戦時下日本に生きたアメリカ人妻の愛の記録」の訳者である新田満里子(先の本ではまり子)は1929年、オーストラリア、シドニーに生まれ、1952年カリフォルニア州の大学を卒業する。
(2016年9月22日)


<渡辺暁雄>

牧師の渡辺忠雄と、フィンランド人で声楽家の渡辺シーリの間に生まれた渡邉暁雄(わたなべ あけお)は、戦争がひどくなる前に日本でローゼンシュトックに指揮を習う。
そして1950年に各方面からの援助で、米国ジュリアード音楽院の指揮科に留学する。渡航はプレジデント・クリーヴランドという船の2等の6人部屋であった。
(2017年6月22日追加)



<千葉一夫>


1948年、外務省に入省した千葉一夫は1949年12月に研修を終えると、アメリカの大学に入学する事になるが、そのタイミングで婚約者の岡本恵子に留学試験を受けさせ、2人そろっての留学が実現する。
1950年7月8日にまず恵子が横浜港からサンフランシスコに向け出発するが、港に着くとそこには一夫が手を振って待っていた。その前の6月25日に勃発した朝鮮戦争で、機雷攻撃を懸念したアメリカ側が、一夫ら国費留学生には軍用機を急きょ用意したのであった。
外務省も戦後早くから留学生を送り出していたようだ。当時東部の大学に留学していたのは一夫の他に同期の宮川渉、柳谷謙介、賀陽治憲であったという。
(『僕は沖縄を取り戻したい』宮川徹志より 2017年8月13日追加)

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