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マッカーサーの横浜の宿舎を探し歩く(写真付き)
Looking for MacArthur's residence in Yokohama
大堀 聰

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<序>

日本がポツダム宣言を受け入れ、連合国軍最高司令官に任命されたダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)は1945年8月30日、厚木飛行場に降り立った。そのまま日本側が用意した車で横浜に向かい、宿泊地であるホテル・ニューグランドに入る。そして日比谷の第一生命館(第一生命ビル)に司令部を移すことを決め、9月17日に東京のアメリカ大使館に公邸を移すまで、マッカーサーの横浜滞在は3週間ほどの短いものであった。


ホテル・ニューグランド(以降写真は全て筆者撮影)

しかし横浜はマッカーサーが最初に足を踏み入れた場所としてよく知られており、今もホテル・ニューグランドではマッカーサーの宿泊した部屋は「マッカーサースイート」として利用され、総司令部の置かれた横浜税関には、当時の執務室が残されている。



マッカーサースィート。当時マッカーサーは3部屋を利用した。(ホテルの許可を得て撮影)


1934年完成の横浜税関の建物は、空襲被害に遭わず、マッカーサーが利用した時のまま。


マッカーサーの執務室。通常は非公開。


彼が使用したとされる机は今の知事机より一回り以上小さく、壁際に置かれている。戦後倉庫にあったこの机を、当時マッカーサーにお茶を運んだ女性がこれだと証言したのが判断の根拠とのこと。

マッカーサーは横浜滞在中を通じて、ホテル・ニューグランド(Hotel Newgrand)に宿泊したのではなく3日のみで、日本側が用意した宿舎も利用していることはあまり知られていない。なお3日かどうかは諸説あるようで、本編でも紹介する。

その宿舎に関して筆者は以前次の様な記述に出くわした。少し長いが引用する。

「(横浜で)占領軍を受け入れる日本側は、次のような(アメリカの)要望に応えなければならなかった。
1 (マッカーサー)最高司令官のため、相当の造作と家具、および4名の副官・3名の使用人の寝室を有する適当な住宅。
2 (サザーランド)参謀長ほか9名の将官のための、相当の造作・家具を備え、かつ最高司令官住宅の近隣にある住宅。
3 以下省略」

それに対して
「占領軍最高司令官と参謀長ほか9名のための住宅は、山手地区に用意することになった。山手一帯は空襲による被害が少なく、戦前に建てられた内外人の高級洋風住宅の大半が残っていたからである。

そこで横浜地区受入設営委員会は、(根岸)旭台のC・マイヤー邸を最高司令官用に、根岸滝ノ上の平田穂作邸を参謀長用に、山手244番のK・クライヤ邸および隣接のW・エグチ邸を9名の将官用として調達し、それらの周辺地域にある他の邸宅も、士官用の宿舎にあてることを決定した。」
(『占領の傷跡 第二次大戦と横浜』より)

その時は山手の244番クライヤ邸が連合国の将官用宿舎に定められたことは、場所柄当然であると思った。一方旭台のマイヤー邸というのは、馴染みはないが、そんなものかくらいに思った。

ところが1945年9月9日の朝日新聞は
「マ元帥横浜へ帰る」の見出しで

マッカーサー元帥は8日午前11時、米第8軍幕僚長以下首脳と共に米国大使館に到着、簡単な入所式の後同45分帝國ホテルに向い、昼食の後午後1時、第一相互を視察して横浜に向った。なおマ元帥の宿舎は従来通り横浜市山手町C・マイヤー氏宅となっている。」
とマッカーサーは旭台ではなく、山手が宿舎であると報じているのである。言葉を代えればマイヤー邸の住所が二説あるのだ。その距離はわずか3キロメートル程であるが、筆者には決して看過出来ない距離だ。



<先行調査>

終戦直後に日本で最も権力を持ち、良く知られた人物の事であるから、その彼が最初に滞在した横浜の宿舎などはすぐに分かるであろうと思ったが、どうもそうではない。今の新聞の「首相動静」といったものはマッカーサーに関し存在しない。マイヤー邸の場所の特定もそれから75年以上経つと難しいようだ。

『レファレンス協同データベース』(以降『レファレンス』と表記)に横浜市中央図書館の調査結果として、旭台、山手説それぞれを裏付ける様々な資料を紹介しているが、どちらかとは断定していない。また山手説ではその出典元が数点挙がっているが、地番が書かれたものはない。山手町は昔のままの地番が多く残るので、地番が分かれば場所の特定も出来る。

一方の旭台説はマイヤーが支配人を務めたスタンダード石油の社宅が旭台にあり、この近くにマイヤー邸があるのは自然だという解釈だ。この『レファレンス』は2011年の作成であるが、今日も未確定な状態が続いていると考えて間違いない。

本編では戦中の横浜の外国人を研究してきた筆者が、そうした角度から新史料を用いて解明に努めるものである。また実際に現地を歩いた感想など、写真を交えて紹介する。



<駐留米軍宿舎の決定>

先に紹介した『占領の傷跡 第二次大戦と横浜』では、宿舎選定の典拠は示されてはいない。当時の一次史料としては終戦直後の8月28日、マッカーサーが厚木に到着する2日前あたるが朝日新聞が、進駐してくる宿舎の決定をおおよそ次のように報じている。

「米軍宿舎決まる」

「占領軍の進駐準備のため外務、内務、陸、海各省よりなる総司令部現地委員会は27日進駐軍宿舎を次のごとく決定した。(中略)なお進駐軍総司令部は横浜税関内に設置される。

将官宿舎 
中区旭台 C・マイヤー
同山手町 カール・クライヤー、同修道院

士官宿舎 
香港上海銀行、外人倶楽部、日本造船、ニューグランド、ヘルムハウス、ライジングサン、帝国アパート、バンドホテル」

以下第一予備、第二予備、兵舎と具体的に建物の名前が逐一挙がっている。この将官宿舎冒頭の旭台のC・マイヤー邸がマッカーサー元帥用であることは疑いなく、戦後の書物とも一致している。

またこれまで紹介されていないようだが、読売新聞も同日に宿舎について報じている。そこでは朝日新聞よりもう少し詳しく述べられている。その部分を抜粋すると以下の通りだ。

司令官 中区旭台53 スタンダード支配人C・マイヤー方(8名)(原文は“相台”となっているが旭台の間違いであることは明らか)
参謀長以下高級将官 中区山手町カール・クライヤー方(5名)
高級将官 中区山手町修道院(6名)
以下省略。


旭台52番には古い雰囲気の残る大きな建物が。


53番にはいくつか家があるが、ここは今も外国人が住んでいるよう。


また道路の反対側は、今も柵に囲まれた米軍根岸住宅だ。横浜市史Ⅱの資料に拠るとこの辺りは占領軍のArea X(住宅地区)となっているが、旭台は接収地区に含まれていない。

読売は「中区旭台53」と明確に地番を書き、人数8名は4名の副官・3名の使用人を加えてのことで先のアメリカの要望とも一致する。俄然可能性が高くなる。

また朝日、読売の2紙が同時に書いているので、前日の8月27日に日本の総司令部現地委員会より宿舎が発表されたことは間違いない。その際進駐軍総司令部は横浜税関内に設置されるとも発表されたが、これはその通りになる。

なお山手244番はドイツ人の実業家カール・クライヤー邸で、山手の修道院というのは「聖血拝会修道院」で、その隣の245番にあった。冒頭の『占領の傷跡 第二次大戦と横浜』の山手244番のK・クライヤ邸および隣接のW・エグチ邸と新聞記事はほぼ合致する。将軍たちは本当に修道院を宿舎としたのかも興味がある。



245番は戦時中、聖血拝会修道院であったが、その前はヘボン博士邸であった。



<住所特定>

『レファレンス』に紹介されている一次史料である1941-42年版の『クロニクル・ディレクトリー』の外国人の住所録では、スタンダード石油会社のマイヤー(C.E.MEYER)の住所が、「中区根岸芝生台59」と書かれている。芝生台という旭台の前の古い住所のままであるのは気がかりだが、旭台59番を裏付ける貴重な手がかりだ。

そんな中筆者は、もう一つ旭台59を裏付ける一次史料を見つけた。マイヤーはアメリカ大使館から在留アメリカ人への帰国勧告が出されたにも関わらず、最後まで日本に留まり1941年12月8日に日本が米英に参戦すると同時に抑留される。当時外国人の行動を監視した外事警察の記録では、以下のような記録が残る。

外諜(スパイ)容疑者として111名を検挙し、名前が載っている。そこにマイヤーの名前と住所もあるのだ。

米国人 旭台59 スタンダード社員 C.E.マイヤー

この記録は当時のもので信憑性は高いので、日本開戦時にここがマイヤー邸であったことは間違いない。

つまり8月28日に読売新聞が書いた旭台53番というのは間違いである。おそらくマイヤーが社長を務めたスタンダード石油の社宅であった様だということであろう。

マイヤーを含めたアメリカ人のスタンダード石油の社員は1942年6月、戦時交換船で母国に引き揚げるが、その後1943年の外事月報によると、ドイツ人が4世帯、11人が旭台53番に暮らしている。これは確かに旭台53番が社宅タイプの家屋であったことを示している。



横浜市東口にある「日本ガソリンスタンド発祥の地」の碑。この場所に横浜米油がスタンダード・バキューム・オイル(通称スタンバック)のガソリンスタンドを建てたのが、日本最初のGSという。



<当事者の証言>

マッカーサーの宿舎の選定に関わった当事者の証言はないのであろうか?そう思って探すと『マッカーサーが来た日』という本に、選定の経緯が書かれている。

「将官宿舎は神奈川県外事課が作成した個人住宅のリストから選定された。空き家が多い外国人住宅を、外交官の吉岡(範武)参事官と帝国ホテルの犬丸(徹三)社長が貸与された乗用車で探し歩いたのであった。横浜市中区でも、関内その他の市街地をはなれた高台の高級住宅は、木々も茂り空襲の災厄から逃れた家が多い。」とまず宿舎を選定した二人の人物が特定されている。

その犬丸の記した『ホテルと共に70年』に当事者としての証言があった。順を追って記していく。
「土埃の焼け跡を回ったが、それぞれの邸宅は“帯に短し、襷に長し”の比喩に漏れず、適当なものが見あたらない。それに、これはと思う邸宅は、戦争中に軍が接収したまま、なお退去せずに使用しており、それを直ちに立ち退かせることは不可能であった。

マ元帥の宿舎にあてられたスタンダード石油支配人邸は、いわゆる大邸宅ではなかった。もちろん当主およびその家族は敵国人であったから、戦時中帰国して不在である。

ここは階下は応接室、食堂が各10坪ほどで、これに調理場その他の小室が付属し、階上は寝室、居間の他更に一室があった。規模はそれほど広くはないが、当時の横浜にあっては、すこぶる立派なものであった。

住む人がいないため荒廃がところどころに目立っていたので、清掃し、一部修理も行い、カーテン、敷物なども大体、新品に取り替えて、マ元帥を迎えたのである。

しかし宿舎は進駐軍側の意向を聴いて決定したものではないため、この家が果たしてマ元帥に満足を与えるかについて、私は全く自信を持ち得なかった。かくして万一の場合を考慮して、別にホテル・ニューグランドの2階全フロアを借り受け、これもマ元帥用とする事とした。

8月30日の前夜から私は横浜にあった。各宿舎に給仕人と料理人を配置し、食料食器を整備し、自分はスタンダード石油支配人宅に待機していた

(マッカーサーは厚木から横浜に着くと)一旦ホテル・ニューグランドで休憩したが、午後8時頃スタンダード石油支配人邸に入った。」

犬丸は選定から、マッカーサーがマイヤー邸に入るまでずっと関わっていた。証人がいたのだ。興味深いのはホテル・ニューグランドは日本側にとっては押さえであったこと、また初日からマッカーサーはホテル・ニューグランドではなくこちらに宿泊したという点だ。これらは当事者が書くので間違いはないのであろう。ただし他の証言などからすると、犬丸が迎え入れたのは、マッカーサーではなく別の将軍、という可能性も残る。

連合国を横浜に迎え入れた日本政府であるが、この期に及んでも司令部の東京進出を避けたいと思っていた。そのためにもホテルではなく、長期滞在に向く邸宅に移ってもらう事を望んでいたのであろう。



<当事者の証言 2>

先の犬丸の記述によれば、彼は8月30日にマイヤー邸でマッカーサーを迎えたとはっきり書いている。一方のホテル・ニューグランドは一階に当時の写真などを常時展示しているが、マッカーサーは3日同ホテルに宿泊したと書いてある。以下はマッカーサーが横浜に入った日のホテル内の記述である。

「1945年8月30日、ホテルニューグランド会長の野村洋三は挨拶が終わると、早速先導してマッカーサー元帥の居室に選んでおいた315号室、並びにオフィスとして使用する予備室として316号、317号室の順に案内して回りました。

またマッカーサー元帥以外の将軍および幕僚、さらにイギリス、フランス、中国等の連合軍に所属する将軍や首脳たちも、フロントに詰めた米軍中佐の部屋割り係官によって、指示された部屋にそれぞれおさまり、その数は159人でした。」

さらには次のように書いてある。
「1945年9月2日、横浜港沖の米第3艦隊旗艦のミズーリ号で降伏調印式が行われました。そして、マッカーサー元帥がホテルニューグランドから山手のマイヤー邸に居を移してからは、ホテルニューグランドは進駐軍の将校倶楽部と食堂、および宿舎として接収されることになりました。」

つまり当事者のホテル・ニューグランドは、マッカーサーは3日間ホテルに滞在したと読めるので、やはりこちらが本当のところか。



<マイヤー邸の建物>

犬丸はマイヤー邸について、さほど広くないと書いている。一方『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』にはマイヤー邸の写真というのを見ることが出来る。日本には存在しないようで、アメリカのマッカーサー記念館が所有するものだが、コンクリート作りで同じ形の窓がいくつかあるスタイルだ。4つの住居が縦割りにあるようで、右から3つの区画は2階建て、一番左は3階建てだ。これは犬丸の書く邸宅とは明らかに異なる。

またその写真では歩哨が一人立っているが、大勢の歩哨が立つホテル・ニューグランドと大違いで、緊張感はなく元帥が宿泊する施設とは思えない。このマッカーサー邸の写真はマイヤー邸ではないと考えて間違いない。

チェコ出身の著名な建築家アントニン・レーモンドのについて書かれた『アントニン・レーモンドの建築』の巻末の、主要建築作品譜には「1927~1929年 紐育スタンダード石油会社支配人社宅 横浜・山手 RC造(鉄筋コンクリート造のこと)、二階建て」と載っている。ここでの「支配人社宅」とは社有の支配人用邸宅という意味であろうか。2階建て鉄筋コンクリート造りの建物を犬丸は「それほど広くない」と書くであろうか?



山手250番にあったスタンダード石油の社宅はアントニン・レーモンドの設計で、今は移築され、パークシティ本牧のクラブハウスとして利用されている。スタンダード石油社宅説の”元凶”?

一方場所は山手と書くが、著者が旭台の違いを認識して書かれているかは疑問だ。旭台も山手地区の一部と捉えているのかもしれない。まさにレーモンドが設計したのは何度かささやかれてきたスタンダード石油の社宅(旭台53番)ではなかろうか? 先の『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』の写真もこちらであろう。

最後に旭台59番の位置を確認しよう。ゼンリン住宅地図によれば現在57番は枝番が1,7,9,10、次いで62番となっていて59番は存在しない。これら4つの枝番はすべてマンションだ。58,59,60,61番はマンション建築時に57番台に吸収されたのであろう。



59番は根岸を見下ろす崖の上のこの辺りだ。



<結論>

ここまで述べてきたことから、マッカーサー邸は旭台59番のマイヤー邸で間違いない。山手か旭台かの論争は決着がついた。最後まで残る疑問は副官らを含んで総勢8名が、さほど広くないマイヤー邸に宿泊出来たかだ。副官らは専らすぐ近くの53番のレーモンドの設計したスタンダード石油の社宅を宿舎としたと考えるのが、自然でないか?

さらに疑えば、日本側はマッカーサー用にマイヤー邸を用意したが、本人は望まずずっとホテル・ニューグランドに宿泊したという可能性も残る。
(2019年6月2日)



<追記1>

マッカーサーの宿泊場所に関し、以下の書物等にも記述がある。筆者のコメントを添えて紹介する。皆さんの頭の中で二転三転、混乱するかもしれないが、あえて挙げさせていただく

1. 『マッカーサーが来た日』河原匡喜より要約。

8月28日にやってきた連合軍先遣隊と厚木委員会との間で会議が行われた。日本側は(宿泊所となる)建物の準備を具体的に語った。先遣隊は満足の意見であったが、最終決定は最高司令官によることが伝えられた。

8月30日早朝4時45分、第11空挺部隊指揮官ジョセフ・スティング少将搭乗C54が到着する。飛行機から降りたスイング少将は有末精三委員長を招き入れ
「マッカーサー元帥は到着後直ちに横浜に向かう。宿舎はホテル・ニューグランドだ」と指示した。「理由は多分、身辺の安全を顧慮したためであろうと直感した。」と有末は自著に記している。

マッカーサー元帥は翌31日午前9時半、宿舎のホテル・ニューグランドを出て進駐軍司令部(横浜税関)に入り万般の指揮をとった。

9月2日、ニューグランドを出て降伏調印指式に赴くマッカーサーの写真が載っている。調印式を終えて横浜に帰ったマッカーサーは、3日にわたるホテル・ニューグランドの居室を出て、かねてから用意されていた市内旭台のC・マイヤー氏邸に仮寓を移した。

「3日にわたるホテル・ニューグランドの居室を出て」という記述は、史料に基づくのではなく、既成事実として捉えて書いている気もする。


<追記2. 毎日新聞8月31日付け>

「マッカーサー司令長官宿舎 ホテル・ニューグランドに」の見出しに続き以下の内容の記事がある。

「11時5分前、マッカーサー司令官の宿舎ホテル・ニューグランド前に行くと、玄関口に2名の歩哨が立ち2階では士官たちが食事をしていた。

付近には物珍しげに集まる市民の姿はひとりも見受けられず、非常に平穏で、この重大な事態に処する心構え浸透しているのが頷かれた。歩哨の姿もどことなく和やかで、われわれ腕章を見ると黙って中へ通してくれた。

中へ入って見ると係員その他の態度も落ち着いており、中に日本婦人も混じっていたが和服をキチンと着ており、洋装のものはズボンをはいた隙のない服装で働いていた。」
元帥到着前のホテルの様子だが、迎える日本の女性の服装が立派な事に、毎日の記者が驚いている。

同日付け、別の箇所では元帥の宿舎はホテル・ニューグランドとはっきり書いている。
「横浜市に進駐した連合軍の将官日没までには1200名を数え、マッカーサー司令官が宿舎ホテル・ニューグランドに入ったのを始め、将官宿舎に当てられたカール・フライヤー、シー・マイヤー等山手方面の外人住宅や臨港地区のホテル・ニューグランド、、、以下略」



<追記3. 横浜市史>

「9月1日には、スタンヴァック日本支社の総支配人が住んでいた社宅(根岸旭台57)を住居用として接収した。その後、この場所は、米第8軍司令官の官邸として利用された。」
住所が旭台59とは異なるのは悩んでしまう。また米第8軍司令官(アイケルバーガー)の宿舎というのも新説。
(以上2019年7月5日追加)



4.読売新聞

同紙によるとマッカーサーが重光葵外務大臣と話し合いをしたのは、総司令部があった横浜税関ではなく、ホテル・ニューグランドだ。ホテルの方が会談の場所としてふさわしかったからであろうか?ここが宿舎ではなかったかという推測も働く。

1945年9月5日
「重光外相は4日午後4時、ホテル・ニューグランドの連合軍司令部にマッカーサー元帥を訪問、一般政策の諸問題、通貨問題に関し要談した。」

9月14日
「重光外相、マ元帥要談
重光外相は13日午後3時、ホテル・ニューグランドにマッカーサー元帥を訪問、要談した。」




5.マッカーサー回想記

マッカーサーは『マッカーサー回想記』という本を書いている。そこから横浜の本テーマに関する記述を拾ってみる。まず厚木から横浜に到着する時のことは、自分の回想ではなく、ホイットニー将軍の書いたものを引用している。

「当時私の軍事秘書官をつとめていたホイットニー将軍は、その時の印象を次のように描いている。わたしたちはからっぽの町を通って、マッカーサーが正式に東京にはいるまでの宿舎に当てられたらホテル・ニューグランドへ連れて行かれた。

ホテルの支配人と職員たちは、ひれ伏さんばかりにして出迎え、マッカーサー用に選ばれた部屋へ私たちを案内した。私たちは疲れて、腹ぺこだったので大急ぎで食堂に入り、他の米軍将校たちといっしょに丁重なホテルの係員たちに取り囲まれながら席に着き、ビフテキの夕食のサービスを受けた。」

次は9月2日の戦艦ミズーリ艦上での降伏調印式の日のことだ。
「私たちの車が港へゆっくり走った時、道路には衛兵が銃剣をきらめかせながら厳重な警戒をしいていた。
私たちは県知事の事務室で小憩した時に、一行の自動車の旗を全部はずし、将校たちの剣も後に残していった。」
途中で休憩したのも横浜税関ではなく、すぐ近くの神奈川県庁だった。

続いて9月8日、初めて東京に入った日だ。
「降伏式の6日後に、私ははじめて東京に足を踏み入れた。
横浜のホテル・ニューグランドから、全占領期間私の住所となった東京の米大使館までわずか35キロの距離だったが、、、」
横浜到着3日後にマイヤー邸に移ったとされるが、ここではホテル・ニューグランドから東京に向かったとなっている。

(以上2019年7月12日追加)



6 アイザック・シャピロ

ユダヤ人で戦前から戦中にかけて本牧で暮らした、アイザック・シャピロはマイヤー家の子供ホルト(Holt)とは親友であった。家も訪問していたようだ。彼の英語で書かれた著作"Edokko"には次のように記されている。

彼はマッカーサーが横浜に到着した翌日の8月31日、港に立っていると20歳後半の背の高いアメリカ兵がにこやかに話しかけて来た。ケリー大尉と名乗り
「日本語が出来ますか?」と聞くので「はい」と答えると
「じゃあ助けてくれ。自分はスクールバスを徴発したが、(日本人の)運転手と会話が出来ない。一緒に来て彼に伝えてくれ。
自分の任務は高級将校のための宿舎を見つけることだ。最初は第8軍のアイケルバーガー中将のための適当な宿舎を確保することだ。」と言う。

そしてアイケルバーガー中将に最初に与えられた住所は、偶然にも戦前スタンダード石油日本支社長のマイヤー邸だった。

「僕はこの家を良く知っています。山手に向かってください」とアイザックは運転手に告げた。そしれケリー大尉に向かって
「マイヤー邸は非常に大きく、部屋がたくさんあり、美しい芝生が植えてあります。将軍が喜ぶこと間違いありません。」

アイザックの記述にはいくつかの興味深い点がある。
8月31日、マイヤー邸はアイケルバーガー用であったと語っている。その2日後の9月2日にマッカーサー将軍がホテル・ニューグランドから移って来るとしたら、アイケルバーガー中将はこの時、当初日本側が考えた将官用邸宅(山手244番クライヤー邸)に移ったのであろうか?

また本牧で育ち山手を熟知していたはずのアイザックであるが、旭台のマイヤー邸の住所を山手としている。よって先に犬丸社長が同様に山手と呼んだのも不思議ではないのかもしれない。謎は深まるばかりだ。
(2019年8月28日追加)



<カール・クライヤ邸>

筆者は
「終戦直後に横浜地区受入設営委員会は、(根岸)旭台のC・マイヤー邸を最高司令官用に、根岸滝ノ上の平田穂作邸を参謀長用に、山手244番のK・クライヤ邸および隣接のW・エグチ邸を9名の将官用として調達し、それらの周辺地域にある他の邸宅も、士官用の宿舎にあてることを決定した」
と書いた。当時は占領軍の権力は絶対であったから、日本側が用意してもこうした家が実際にアメリカの高級将校によって使用されたかを含めて定かではなく、それを調査したのが先の拙稿であった。

今回GHQの資料から山手244番のカール・クライヤ邸に関連する資料が見つかった。
「日本のドイツ人の資産調査(Vested German Property in Japan, Real Estate, Volume 2, 」にはクライヤ邸が詳しく報告されている。

歴史
1 以前の持ち主:カール・クライヤ(Karl Krayer) 
2 国籍 ドイツ
3 本人の現状 ドイツに強制送還済 

土地
1 番地  244番
2 面積  610坪(約2013平米)
3 交通の便 非常に良い
4 立地条件 横浜の中心地に近い良い居住地域。美しい庭でよく維持されている
5 構造 居住棟、召使棟、庭師の住まい、ガレージ、温室、物置、あずまや

建物
1 132坪(約436平米)
2 平面図: 2階建ての11ルームの住まい。別にふた部屋の召使用住居、ふた部屋の庭師の住まいとガレージ
3 構造: 西洋スタイルの強固なコンクリート構造。コンクリートの基礎部分、コンクリートとタイルの壁。タイルの屋根

評価額 
土地:   537、600円
建物: 2,286,000円

状態の注釈は次の様だ。
修理の一般状況は素晴らしい。建物はアメリカ陸軍の手でアイケルベルガー将軍の住まいとしてその前に完璧に修復された。全体として状態は素晴らしい(excellent)

アメリカ側の文書からここ山手町244番が、マッカーサーに次ぐ占領軍のナンバー2であったアイケルベルガーの住居であったことが”初めて”確認できた。


山手244番はマンションで、当時の面影は全くない。こうした大きなマンションが建つほど、広い土地であったことだけは推測できる。

クライヤの家は外国人が横浜開港以来暮らした高級住宅地山手で、2000平米以上の広大な敷地を所有していた。写真を見るとメインの建物はコロニアル風で入り口までには長いアプローチがある。日本側が用意するだけあって空襲から残った建物の中では、おそらく最も豪華なもののひとつであったのであろう。

クライヤは長年,暖房技術の会社(Lurgi Gesellschaft für Wärmetechinik 今も存続)の代表であった。駐在員として本国から支払われる給料だけでこうした豪邸が手に入るのかは少し疑問だ。

クライヤは終戦は、疎開した箱根村328番で妻マリアと共に迎えた。そこは彼の所有する別荘であった。そしてその家は1951年2月23日、競売の結果アメリカ人の弁護士エルマー・ウェルティ(Elmer E. Welty)の所有となる。(落札価格1、500、000円)
強制送還されたドイツ人の資産は皆このように競売にかけられたようだ。次はクライヤ自身についてもう少し知りたいところだ。(オリジナルの写真等は国会図書館の許可を得次第、掲載する予定です)
(2021年7月29日)


クライヤ邸(2021年8月31日アップ)
さらに詳しくはこちらを参照。

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