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第二次世界大戦下の欧州邦人 (イタリア編)補遺
 
Japanese in Italy during WW II

2月16日に出版した表題の本に関連して、新たな記録等が見付かった際、他の2冊同様に「補遺」として紹介していく。

『第二次世界大戦下の欧州邦人 (イタリア編)』はこちら


<ヴェニスの日本大使館>

1943年9月、日本の外交官、軍人はローマを避難してヴェニスに向かう様子は『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』で紹介した。(27ページ)
そこに1年程開設された日本大使館に関しての記録は少ないが、次のような関係者の証言が見つかった。

朝日新聞の特派員であった衣奈多喜男は書く。
日本人一行はようやくヴェニスに到着したが、
「ヴェニスの安全性は、まだドイツ軍の手で公式には保証されてはいない。それにここはイギリス海軍が来ようと思えば、いつでものりこめる海の玄関。

(一行は)再び海浜を避けて奥地へ転進する方針が決定した。ゴンドラに乗ってホテルへ荷物を運びこんだ気の早い連中も呼び返されて、逃避行はゴール・インの『上がり』から一つ『戻り』」という事になった。そして疲れた一行の車塵は、さらにタルビシオまで続いた。ローマから数えて800キロ。初めての流浪の度は、ここでひとまず終了した」(『最後の特派員』より)

タルビシオはヴェニスからさらに北東に200キロ進んだとこの町だ。大使館はその後ようやくヴェニス、陸軍武官室はコルティーナ・ダンペッオ、海軍武官室はメラーノに開設される。

野一色武雄外務書記生は「水の都で水に困った話」という小文でヴェニスを書いている。
「四方八方水に取り囲まれ、少し水嵩(みずかさ)の増した時などは町中の道路の上から、立ち並ぶ商店の店先まで水浸しになってしまうこの町に1年近く住んでいる中、まる3か月程水飢餓に悩まされたことがあります。

それは1944年の春から始まった連日の連合軍の爆撃で、ヴェニスの住民に飲料水を供給するただ一本の水道の鉄管が爆破されてしまったからです。この隧道は対岸のイタリア本土から延々数キロにわたる海中を通ってくるのですが、見事に海底で爆破されてしまったのです。修理しようにも毎日の様に爆撃があるので、海底に潜って仕事をしようという工夫が足りません」(一部不鮮明な部分が筆者が補った)

四方を水に囲まれたヴェニスで水不足と言う皮肉な話であった。この記事は戦後まもなくに発行された雑誌に掲載されたものだが、今その出典が見つからない、、、
(2021年4月6日)



<齋田暢三>


齋田暢三(さいたようぞう)の著した『戦時下のヨーロッパ ある外交官一家の手記』は戦時下の欧州の邦人についてよく語っている。本の題名からして、筆者のものかと見まごうばかりである。イタリアについても新たな興味深い事実が登場する。適宜筆者の解説を加えつつ、戦時下のイタリアの新たな面を描き出す。

暢三の父、藤吉は東京帝国大学でフランスの法律を学び、1921年に卒業する。三井銀行に入行したが、肌に合わず退職し、約5年間フランスに留学した。その後1938年に外務省に商務官として採用されて、その年にパリに赴任する。回り道をして入省してキャリア組ではないためか、欧州赴任中にずいぶん異動が多い。

パリに一家で到着したのは1938年9月9日のことである。1940年6月のパリの陥落で、他の大使館職員とともに南フランスのヴィシーに移り住む。

翌年1941年、ローマのイタリア大使館勤務を命じられ2月5日、パリのから南方面への列車の出るリヨン駅で、多くの在留邦人に見送られて、夜行列車でローマに発った。外務省報によれば2月14日にはフランス兼務の辞令が発令されている。

「ローマでは母親は在住の邦人から使用人に注意するよう言われた。こそ泥が多く、置いておくと盗られてしまうので、なんでもしまって鍵をかけるように教えられた。

また笑い話の様だが、置いてある酒を勝手に飲むから、瓶を逆さまにして液面の位置に印をつけ、元に戻して置いておくと飲んだかどうか分かると言われた。特に南部出身者はひどいとのことだった。彼らは毎日曜日に教会へ行って懺悔し、また繰り返すということだった」

補足すると瓶をそのままで線を引いておくと、さすがに使用人もその意味が分かり、水で薄められてしまうから、対策にもひとひねりをしたのであろう。

「イタリアへ来て両親は子供3人の教育に苦労した。外務省の在外勤務期間は通常3年であるので、この夏には帰国するはずだった。せっかくフランス語を覚えさせたのに、ここでイタリア語を覚えても混同してしまうのではないか心配し、フランス語で教育する学校を探したが無かった。

そんな時、日本から研修のために来ていた日本人の神父の紹介で、日本の小学校の教員免許を持っている聖フランチェスコ修道院のメール、マリア・ネリア・村田先生を紹介された。修道院はテルミニ駅近くのジェステイ通りにあり、毎日日本語を教えてもらいに通った。
一度、祝祭の礼拝に誘われたことと、郊外のグロータ・フェラータにある修道院に招かれて食事をしたことがあった。グロータ・フェラータでは教えてもらっている他の日本人の子(光延海軍武官と牧瀬商社員の子弟)も一緒だった」

思わぬところに日本人の先生がいたものだ。光延武官も子供の教育に苦労していたことを手紙にしたためていたことを紹介している。(表題の書 26ページ)

「父がローマに赴任してすぐ、本省よりベトナムのハノイの領事に任命される。帰国のルートを探すことになった」
日本経由で向かうことになるが欧州航路は閉鎖されている。シベリア鉄道経由は6月22日、ドイツとソ連の間で戦争が勃発して、これも閉ざされる。日本から来るはずの靖国丸も派遣が中止となり、残るはアメリカを経由して帰るルートのみとなった。

同じタイミングに左遷人事でアフガニスタン公使を命じられた小林亀久雄ジュネーヴ総領事は、開戦直前にシベリア鉄道で日本に戻り、アフガニスタンに向かっている。(「戦時下、小林亀久雄公使のアフガニスタンへの道」参照)

「アメリカに渡る船の予約をスペイン、ポルトガルの両公使館に依頼していたが、11月に入ってアメリカ船の予約が出来て、帰国することになった。11月25日にサン・タニエゼのアパートを引き払い一家はホテルへ移った。28日の夜9時に多数の見送りを受けてローマを発ち、帰国の途に就いた。12月6日マドリードに着く。そして翌日、当地公使館員の堀田さんから日本の対米英開戦を知らせる電話があった」

一家がパリを発った11月25日時点で、日本の外務省の中枢は、日米の交戦は不可避であることはすでに分かっていた。ただしこうした無情な赴任は多くの国で行われている。彼らを引き留めると、開戦の意図が他国に悟られてしまうからだ。

「1941年12月23日、再びパリに戻った。父の勤めはフランスも兼務になったものの、主にローマにいなければならなかったため、アパルトマンが見つかるまでは、パリの家族は日本料理店『牡丹屋』の客室に住むことになった」
旅館も併設していた牡丹屋について筆者は『パリの日本料理店 牡丹屋をめぐって』で詳しく書いている。

1942年7月末、家族は夏休みを利用して父のいるローマに向かう。最短のコースはパリからリヨンを通ってイタリアのトリノに出て、そこからローマに行く方法だった。フランスはドイツ占領下のパリを含む地域と、ヴィシー親独政権が統治する地域があり、両者の間では国境の様にコントロールがあった。

「7月29日の夜行列車でリヨン駅を発ったが、午前4時に分割の境界に着いた。コントロールはパスポートを見ただけであった。午前11時ごろイタリアとの国境に着くが、ここでのコントロールも簡単に済み、イタリア側の国境の町バルドネッキアで、ローマから迎えに来ていた父が乗り込み、その日の午後3時にトリノに着く。ホテルで一泊して翌日の夜行列車に乗り、8月1日にようやくローマに着く」

今とは異なり格段に時間のかかる戦時下の旅であった。隣の国に行くのに2回検査があったが、家族も外交官のパスポートを所持していたので、検査は民間人に比べれば、はるかに楽に済んだはずだ。

「父のアパートはニコラ・マルテラにあった。家族が来てもいいように広く、特にバルコニーが広かった。家には短波放送も聞けるラジオがあり、日本からの放送を聴くことが出来た」
パリではロンドンの亡命政府がBBCを通じてしきりに抵抗を呼びかけていたので、外国語の放送を聴くことが禁じられていたか、妨害電波を発せられていて、日本からの短波放送も聴くことは出来なかったのであろう。

「10月に入ると以前国語を教えてもらっていた修道院の村田先生の所に再び通うようになる。朝、乗馬をしてから村田先生の所に行き充実した日々を送った。街ではリリー・マルレーンの音楽をよく聴いた」

ローマで少年時代を送った日本人は口をそろえて「ローマの生活は、今から考えると、天国のような暮らしだった」などと語っていたことを拙著でも書いた。(拙著21ページ)
リリー・マルレーンはドイツ人ララ・アンデルセンが歌い、戦場ではドイツ兵のみならず、対峙する英国兵も銃を置いて聴き入ったと言われる。そのメランコリーなメロディーがローマの街でも流れていたとは意外な気もする。

長かったローマでの休日も終わり11月8日、家族は夜行でまずジェノヴァに向かう。先ごろの空襲でプラットフォームの屋根は一つもなかった。イタリアもかなり連合国の空襲を受けた。パリ着は11月10日朝8時であった。

1943年5月、父が再度パリに来て、5月30日に家じゅうでパリを引き揚げ、6月1日ローマに着く。
「7月27日には新内閣が任命され、その翌日ファシスト党の解散命令が出た。修道院の村田先生は『ローマにはパパ様(法王)がおられるから爆撃されない』と言っていたが、8月13日(金曜日)朝11時ごろから第2回目の空襲があった。イタリア人は戦争が終わったと思っていたのか、すっかり慌てていた」

イタリアでは7月25日にクーデターでムッソリーニが失脚して、バドリオ政権が成立する。村田先生はその後、中立を保つバチカン市国に籠って終戦を迎えたのであろうか?それとも修道院にいたので、ローマ近郊でもそのまま安全に生活出来たのであろうか?

「ローマに在留する邦人の婦女子の引き揚げが問題となり、8月21日にアパートを引き払い、沢山の荷物を大使官邸の地下に入れ、ホテルに一旦引っ越した。行き先はなかなか決まらなかったが、8月25日、最終的に決定し、我が家も同行することに決まった。場所はオーストリアのウィーンから約50キロのウォーフィングという場所でジーメンスのサナトリウムとのことだった。同施設には人も物もなく、シーツ類はもちろんの事、食器から掃除道具、家政婦まで連れてきてくれということだった」

欧州では家政婦は家族同様で、どこに移動しても行動を共にすることが多い。日本に帰国した際に、日本までドイツ人家政婦を連れてきたのは拙著で紹介した重光綾子一家だ。しかしイタリア劣勢のこの時期、ローマからオーストリアまで同行した家政婦はいなかったのではないか?

「そんな折、長兄の吐いた痰に少し血が混じったというので、急遽、かかりつけの医師に診てもらった。念のために専門医にも診断を依頼したところ『進行していて状態が悪いから、スイスの山に行くように』、と言われて紹介状を書いてもらった。そんな訳で家族はヴォーヒング行きは止めて、スイスに行くことになった。
紹介してもらったサナトリウムはモンタナという所にあった。アトランタというサナトリウムに兄は入院する」

「後日聞いた話では、大使館一行はアペニン山脈を北上し、ヴェネツィア近郊に達した所で、ドイツ軍の機甲部隊が待機しているのを見て一同ほっとしたという」
大使と共にヴェネツィアに避難した朝日新聞の衣奈多喜男は次の様に書いている。
「日の丸の自動車が十数台、ヴェネツィアの玄関ピアッツア・ローマに飛び込んで整列した。そこへイタリアの憲兵司令官を乗せた自動車を先頭にして、ドイツの装甲自動車が数台、風をきって入ってきた。若い青年将校はカバーを取った機関銃に手をかけて、堂々たる進駐ぶりである。イタリア人は『テデスコ、テデスコ』(ドイツ人)とささやいて注視し、日本人のある人たちの中には、帽子を取って卑屈に敬礼するものもあった」
暘三が聞いた話として書く「ほっとした」と「卑屈に敬礼した」とはだいぶかけ離れている。

また本の別の所で暢三は「ドイツに引き揚げるためにジェラメールに滞在中、朝日新聞の衣奈多喜男さんが戦場での話をいろいろと話してくれた」と書いている。暘三が「後日聞いた話」として書いたヴェネツィアの話は、その時に衣奈から聞いたのが元かもしれない。

ムッソリーニ政権が倒されて、日本人は皆ローマを引き揚げたが、その後連合国軍はすぐに進駐してこなかった。そこで衣奈はローマに戻ることを決める。日高大使に報告すると
「よく分かる。君はローマへ引き返すというのだろう。日本がやられようとしている時に新聞記者がのうのうと、我々について逃げ回っているのもおかしい。ご健勝を祈る」と大使は答えた。
その後大使館も少数名を旧ローマ大使館に戻した。

そのころバチカンの原田健公使が重光外務大臣宛に電信を送る。またヴェネツィアから日高大使は外務省宛に暗号電報を送ることが出来なかった。「スイスよりベルリンへ10月30日より約一週間の出張、斎田商務官」
藤吉の滞在するスイスからベルリンへの出張の申請であった。こうしたことも認可権は外務省にあった。

その間の11月3日、兄は容体が急に悪化し亡くなる。この日は明治節(明治天皇の誕生日)で、藤吉は日本大使館の式典に列席していた。その翌朝、早速ビザの手続きをし、20時23分の夜行列車でベルリンを発った。翌朝の11月5日13時30分、スイスのバーゼルに着き、山の麓の町シェールには21時30分に着いた。

「父は再度イタリア行の手配をし、11月30日一人で発った。行先はまずウィーンと、婦女子が避難していたウォーフィングであった。そこは見たところ、外観はよく庭も広かったが、すでに雪で覆われていた。建物の中は何となく病院の様であり、父もここで一泊したが、暖房がよく効いていなかった。食事も悪かったがドイツ人お家庭よりはいいとのことだった。当時はイタリアの方がまだ食糧事情が良かったので、皆は陸軍武官のいるコルティーナへ移りたがっていた」

愛児を失い傷心のローマ行きであった。一方ウォーフィングでの生活について筆者は初めて知ることが出来た。
そして同地から食糧事情の良いイタリアに買い出しに出かけた三菱の牧瀬裕次郎と大倉商事の朝香光郎が、パルチザンの手で殺害されたことは拙著で触れた。(33ページ)

日高大使は1944年1月1日より大使館事務所をヴェネツィアのグランド・アドラー(Grande Adler ホテルか?)に開設する。この時から暗号電報の送信が可能となる。

「父は次に新規開設されたヴェネツィアの日本大使館の事務所に立ち寄ってから、ローマの大使館へ自動車でアペニン山脈を越えて行った。ローマでは残務整理と以前付き合っていた人々から現状を聞いた。民衆は反独、反ファシストであるとの話だった。ローマには5,6日滞在する」

「その後ヴェネツィアに戻るが、ヴェネツィア滞在中は、ガルダ湖畔に移転したムッソリーニ側の人に会いに行ったりし、その年の12月1日ウィーン経由し、家族のいるジュネーヴに戻ってきた。父は今度パリに行くことになった。」
1944年12月15日 一家を乗せた汽車はパリの東駅に到着した。

斎田家はそれからも連合国軍が迫るパリからベルリンに引き揚げ、オーストリアのバート・ガスタインに大島駐独大使らと共に避難し、そこでアメリカ軍に捕らえられ、アメリカで収容された後、日本に戻る。欧州邦人の中でも異動、移動の多かった齋田一家、『戦時下のヨーロッパ ある外交官一家の手記』は拙著出版前に読んでおきたかった一冊だ。
(2021年3月15日)

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