日瑞関係のページ HPの狙い
日本 スイス・歴史・論文集 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

日瑞関係トップ戦時下の軽井沢1戦時下の軽井沢2 補遺(外国人編)軽井沢の思い出コンタクト

心の糧(戦時下の軽井沢)補遺(日本人)
Karuizawa in wartime, appendix
大堀 聰

補遺編では本編1部、2部に収まり切れない内容、書籍『心の糧 (戦時下の軽井沢)』出版後に判明したことなどを日本人を中心に随時紹介していく。同書を読まれた後に、こちらを読むとより理解しやすいと思います。外国人編はこちら
軽井沢書店の店頭に並ぶ「心の糧(戦時下の軽井沢)」

『続 心の糧(戦時下の軽井沢)
Wartime Karuizawa Vol.2 終戦直後の光景を中心に』が発売されました。(22年1月)


<内山章子 後藤新平の孫> 


内山章子は著述家で衆議院議員などを務めた鶴見祐輔と、明治から昭和初期にかけて活躍した政治家、後藤新平の娘・愛子の間に1928年に生まれる。兄は哲学者の鶴見俊輔だ。一家の別荘は軽井沢の線路の反対側の南軽井沢にあった。筆者は直接ご本人にお話を聞くことは出来なかったが、以前に書かれたものをいただいた。いつものようにその内容に筆者のコメントを加える。

「楽しい生活は1945年2月、疎開先の軽井沢で、母が脳溢血で倒れたことで一変した。女学校卒業の直前、看病のための軽井沢暮しが始まった。16歳だった。

続きは書籍でお楽しみください。こちら























(『軽井沢120年』軽井沢文化協会発行に収められた『こぶしの花』内山章子より) 
2021年10月11日





<鳥尾多江 (マダム鳥尾の軽井沢)>


鳥尾多江(旧姓下條)は1932年、子爵鳥尾敬光と結婚し華族の仲間入りをする。多江は自著『私の足音が聞こえる』の中で戦時下の軽井沢について以下の様に書いている。いつものように筆者のコメントを添える。

「1945年6月、軽井沢の別荘は本当に夏向きの家で、冬はとても住めなかった。しかし6月の今なら住めると疎開を決める。しかし夫は『預かったアジアからの学生の責任がある』と東京の家に残る。多江は近所の酒屋の主人からリヤカーを借りた。それに四つばかりのスーツケースや風呂敷包みをのせると、カンカン照りの埃っぽい道を駅へ向かった。汗びっしょりになって駅に荷物を置くと、また同じ道を車を返しに戻った。
2,3日して、子供2人と私は、ごった返している上野駅から汽車に乗った。持てるだけの手荷物を持った」
続きは書籍でお楽しみください。こちら


















住まいは今登録有形文化財に認定されている旧ジョルゲンセン邸、元アメリカ人宣教師の別荘であった。彼が疎開した軽井沢でも商売を行ったのであろうか?

現在の旧ジョルゲンセン邸(筆者撮影)

「問題は当座の衣類と食糧だった。疎開三日目の朝、私は駅に向かった。
皆、朝5時の汽車で小諸や下仁田へ買い出しに出かけることを聞き出した。その頃の軽井沢の駅へ向かうまっすぐな道の両側はまだ野原と林だった。草軽電鉄の線路が駅まで通っていたが、この終戦の年には電車は走っていなかった」
続きは書籍でお楽しみください。こちら






















(2021年9月16日)




<三村道夫 神戸から軽井沢への鉄道による疎開>

三村道夫(三村技術事務所代表)さんの父征雄は数学者で、戦前にはドイツ留学の経験がある。軽井沢の縁で言えば堀辰雄は一高で同級生だった。堀は意外にも中学時代、数学が好きで未来の数学者を夢見ていた。道夫がドイツ通なのはそのDNAをより受け継いでいるからであろう。道夫より三村一家の軽井沢への疎開について話を伺うことができた。それは先に筆者が紹介した『芹沢光治郎と軽井沢の鉄道』の中の鉄道の話をよく補完してくれる。

道夫の父は戦前大阪大学で数学を教えていた。住まいは兵庫県武庫郡本山村(現在の神戸市東灘区)にあった。家の近くにはドイツ人がかなり住んでいて、子供同士が遊ぶくらいの付き合いがあったという。

続きは書籍でお楽しみください。こちら






















(2020年5月20日)



<芹沢光治良と軽井沢の鉄道>

東京から軽井沢を経由して長野方面に向かう信越線は、終戦前後も走っていたことは『心の糧』の中で書いた。(153ページ)
東海道線に比べて、沿線には重要な軍事施設なども少なかったので、空襲も少なかったのではと筆者は考えている。先日から紹介している芹沢光治良の『戦中戦後日記』でも上野と軽井沢の間を行き来する様子がしばしば登場する。

1943年>
7月28日記
25日の午後には思い切って出発する。(沓掛へ)
日曜日の切符なので、前日買うのに苦労した。12時50分上野発、6時沓掛の家に着いたが、汽車は意外に空いていて、家内もいつになく汽車に酔わず。持参したマホー瓶のなかのコーヒーのおかげなるべし。
→まだ本格的な空襲、疎開が始まる前なので、軽井沢までの汽車旅行も余裕があったのだろう。

<1945年>
6月15日
8時の汽車で軽井沢に出た。電車(汽車?)が出るので乗ったが、実に混んで貨車にまで乗客がいっぱいであった。乗客のうちに蕨摘みもいた。
→これは彼の住む最寄り駅「沓掛」(今の中軽井沢)から隣の「軽井沢」までの描写だ。軽井沢と近郊を結ぶローカル列車は貨車も連結し、そこにも乗客がいた。

6月26日
4時に目覚ましが鳴った。(女中の)明子さんは4時に起きて用意したのであろう。(上野発)6時25分の汽車に乗ったのは自分勝手の考えに執着しすぎたのであろう。
5時10分前に、あのトランクを背負って出掛けたが、明子さんがリュックを背負って上野へ、岡村さんは荻窪まで見送ってくれた。上野には6時10分着。乗客はすでに入場した後だが、軽井沢行きの箱(車両)に腰をかけられた。軽井沢で貨車に乗る。半時間遅れていた。疲れていたが早速畑に出る。
→これは東京から軽井沢に向かう様子だ。上野発浅野6時25分、筆者が唯一持つ1943年の時刻表では6時25分発が一番列車で、軽井沢着10時25分着となっている。東京大空襲の後だが、列車は時間通りに運行されたようだ。
座ることができたので混雑はさほどひどくなかった。疎開の動きもひと段落したのか、それとも事前に切符を入手した人のみが乗車できたからであろうか。
軽井沢で乗り換えたローカル列車はまた貨物列車だ。

7月20日
(名古屋から軽井沢に向かう)
名古屋駅構内で列を作っていると、空襲。退避せよと飛ばれたが何処に退避すべきかに迷う。やがて中央線は時間前に発車すると連呼する。列車は暗闇の中を発車。5つ目の駅で退避する。3時間退避して空襲が解除され、ようやく出発する。
→空襲を避けるためには定刻前に列車を発車させることもあった。車内で出会った人々についても書いている。その一人について「松本から軽井沢に行くといって乗り込んだ2人の子供連れの夫人の飾らない美しさと親しみの多い態度も忘れられない」と記す。

8月2日
6時40分で(軽井沢から上野に向けて)出発した。汽車が混んで2等車に入る。山本実彦氏(改造社社長)に会う。前夜川崎や八王子に空襲のあったこと、(B29の編隊)を気にしていらだっていた。痩せられた。大東亜省の顧問会議が12時にあるとか、それに出席するのに、列車の延着するのを恐れていた。顧問になったことが得意らしい。こんな人が本物の官僚になるのであろう。赤羽で下車。
→終戦直前も与えられた職を喜び、軽井沢からその日の会議に向かう山本だが、戦後は公職追放となる。

8月4日
4時起床。5時5分前に出発。白米のご馳走で恐縮。岡村氏と明子さんが駅まで送ってくれた。トマトを沢山お土産にいただいた。
汽車は混んで、次の8時半にしようかとホームで迷っていたが、一刻も早く東京で出た方がよいちて、駅員が世話をして窓から入れてくれた。みな窓から出入りしたが、腰かけている人々は自分さえよけれっばという考えからか、窓から入るものを入れまいとして大変である。もう道義は地を払った。列車の中はうだるように熱い。
軽井沢行きの5両が切られて、1両しか連結しない。軽井沢に乗り捨てられた者がおびただしい。
→早く東京を出ようと6時半の汽車に乗った。終戦に向けて全国的に列車は年々減ったようだが、次の8時半の列車も残っていた。11時59分に軽井沢着だ。
先に乗った人が後から来る人を乗せまいとするとは人間の悲しい性か。上野から6両で来た列車は、5両が軽井沢止まりで1両のみが先に向かた。

8月8日
新井へ出たが、これも暑かった。電車をミスして、1時半の電車で松本へ出たが、運よく下り列車が遅延したのでやっと間に合った。
2人とも背負った荷物は重かった。大麦5升、白米三升、粉二貫、ジャガイモ一貫、南瓜3ケ、なす2~30.トマト10ケ、卵60ケ。280円支払った。篠ノ井でみんな林檎を持って乗り込む。林檎を欲しいと思う。夕7時半に着く列車で帰った。
→買い出しでまず長野駅の先の現在の中野市新井に向かい、次いで松本に出てそれぞれ買い出しをしたということか?

8月13日
昨夜遅く神谷啓三氏来たる。5時着の汽車が空襲のために遅れたのだ。日本がソ連を通じて英米に和を求めているーーーという噂が真実で、この17,8日ころには発表になるらしいと。
3時の汽車で帰京の予定が駅に7時ころまでおって、列車不通なれば再び戻られた。小山大人、小諸よりトラックで帰られた。物情騒然たり。
→終戦3日前も遅れはあったが信越線は動いていた。また識者の耳には終戦の情報が届いている。
神谷氏はこの時期に軽井沢に一泊して東京に戻ろうとしたが、2日前は不通であった。

8月14日
小諸なる友野さんを訪ねるのだが、切符を入手すること困難なり。
6時半に(駅に)至りて8時に漸く切符を買う。8時半の下りに乗るを待ちたるが、8時10分の上り(上野行き)で小林ひでさんの入営するのを序に(先に)見送る。
→終戦前日は信越線は動いている。

8月20日
沓掛の駅で永田医学博士に会う。土曜日(8月18日)に来て帰京するとのこと。永田さんもトラックで荷を運んだが、もっと山の中へ行きたいと。その慌て方、おぞましい限り。
→終戦直後に軽井沢と行き来できる永田博士とは誰であろう?

9月6日
9月9日に母の10年祭(神道の追悼儀式)を沼津で行う決意をしたが、乗車券を手に入れるのが問題である。前日申告というが、夜の2時ころから行く(並ぶ)という。10時に受け付けるのに困ったことだ。
9時半ごろ思いついて行ってみたが10時10分だった。すでに受け付けていたが、駅長は休みで助役である。助役はみんな苦手らしかったし、「長野や上田は林檎の買い出しだろう」とてほとんど受け付けない始末。
私は勿論最後であったが、文句なし受け付けてくれた。7日に買って8日に行くことに決す。
→名士であったからか、芹沢は切符の予約が出来た。

9月8日
6時半の汽車で(東京を経由して)沼津へ発つ。霧の立つ思わしからぬ天気。汽車は混んだ。

11月2日
東京行きの切符があるので、10時発で東京へ出る。汽車は高崎から腰を掛けられた。

1946年
1月9日
トラックで軽井沢へ出て12時20分の軽井沢始発の列車で家族とも上京。万里子は明日トラックで来ることにして小山さん(宅)に残る。
(2021年5月6日



<芹沢光治良と外国人>

先に「レオ・シロタと芹沢光治郎」で紹介した小説家の芹沢光治良は、軽井沢の隣の沓掛(くつかけ)に疎開していたが、時折多くの外国人が暮らす旧軽井沢を訪れている。そこから関連部分を拾ってみる。

1945年
4月20~5月5日
やぎばら付近は田があり、沓掛と違って、畑も肥えている。小林さんの家は白壁が遠くから見えていた。近づくと外国人が2人、リュックを背負って出て行った。外人の買いあさりの噂が噂だけではない。
→別の個所から推察すると「やぎばら」は星野温泉と中軽井沢駅の間あたりか?「小林さん」は芹沢家がお世話になっている闇屋さんである。外国人もその存在を知っていたのであろう。

6月14日
敗戦国だという感が強い。テニスコートの半分は野菜畑になり、他の半分には数人の外人がテニスをしていたが、皆フランス語であった。ドイツ人が町で遠慮し始めたのはひがめか。
→ドイツが降伏したのが5月7日、日本のドイツ大使館も機能を停止し、軽井沢ではドイツ人は異なる国の人々との交流が禁止される。(『心の糧』145ページ)
ドイツ人はこれまで大手を振っていたが、実質軟禁状態に置かれることになる。一方フランスはロンドンの亡命政権のおかげで戦勝国となる。テニスコートのフランス語はフランス留学経験のある芹沢には心地よい言葉だったはずだ

8月17日
敗戦の苦悩が身に染みるのはこれからである。娘を持つ母達は、アメリカ兵が娘を食いに来る毒蛇のように怖れはじめている。

8月29日
アメリカ兵の進駐についての流言飛語多し。軽井沢にも進駐するが、この辺にはあいまい屋がないので、別荘の女子に接待を命ずることがあろうとて、逃げ出す若い女が多い。隣組でも、大橋さんではお二人を新潟県にやったようである。
→「あいまい屋」とは料理屋・茶屋・旅館などに見せかけて売春をする家。

9月16日
午後ふたりで旧軽に出る。行きは歩き帰途はバス。旧軽は店は相変わらず開かずに寂しい。テニスだけが盛んになった。宮坂君は大きな花壺を買う。
→テニスコートはアメリカ軍が進駐に来ると早速接収される。(同167ページ) この時テニスをしていたのはアメリカ関係者、もしくは自由を得た中立国の外国人か?

(2021年5月3日)



<レオ・シロタと芹沢光治良>


小説家芹沢光治良の次女野沢朝子は「父、芹沢光治良、その愛」の中で軽井沢での食料調達について書いている。
「1945年頃の日本は、土地の人と疎開者と呼ばれた都会の人とははっきり区別されて、土地に根付いた人に頼らなければ生きていかれなかった。野菜やコメと引き換えに、着物や雑貨を渡す『物々交換』でしか食べるものを得られなかった。

私たちの家族6人分の食料調達は、愛嬌のいい長女万里子が引き受けていた。ふくよかでがっしりしていた丈夫な姉は、大きなリュックサックを背負ってこの役割をニコニコと果たした。土地の人と仲良くなって、渡すものよりたくさんの野菜をもらってくる。我が家の大黒柱のようであった。それでも食べるものは足らず、時には父もリュックを背負って、姉と一緒に買い出しに行った」
食糧調達では人間関係も大事だったことが分かる。

父親である芹沢光治良は戦前、フランス留学経験があり『巴里に死す』で注目された。筆者は『浅田スマ子・戦後初の”サロン”をパリで開いた女性』を、芹沢の『巴里夫人』をベースにして書いた。芹沢の『戦中戦後日記』は戦時下の軽井沢(沓掛)に関する記述が多く、筆者には金鉱だ。筆者の『心の糧(戦時下の軽井沢)』で紹介したピアニスト、亡命ロシア人レオ・シロタ(5ページ)が何度か登場する。(適宜現代文に改める)

1943年

まずは舞台は東京である。
10月12日
長女がピアノをレオ・シロタに褒められたと喜んでいた。

続きは書籍でお楽しみください。こちら

















1945年

5月19日
旧軽ではレオ・シロタを訪ねた。シロタ氏は2階で昼寝らしく、奥さんが階下でピアノのレッスンをしていた。
冬を越した生活の厳しさを語っていたがシロタ氏はすっかり痩せて見違えた。肉もなし、薪もなし、これが戦争だと言っていた。鶏を飼っているが鶏の餌がないので鶏も卵を生まないと笑っていた。家の前の空地を友人が耕して、ジャガイモをやってくれたが、秋でなければ実らないのが恨めしいとも言っていた。

火災証明書を出して、期限が切れるのでどうしたらよいかという相談である。ともかく八十二銀行に相談に行ってやる。(18日が期限であり、いつ空襲にあうか分からないのに、東京の赤坂にあるピアノや家財が焼けたらと心配して、継続手続きをとらなければならない)

八十二銀行から帰ると娘の稽古をしていた。小一時間待ったので最後のバスを乗りそこなって、歩いて帰った。運動靴で歩くと疲れる。
→日本の銀行との手続きなどにシロタは芹沢を頼った。その見返りが娘へのピアノのレッスンだったのであろう。
ピアニストで農作業などやったこともないシロタを見かねて、友人(弟子?)が庭でジャガイモを栽培したのであろう。

<font size="+1"><font size="+1"><u>シロタの住まいは元有島武郎の別荘</u></font></font>
シロタの住まいは元有島武郎の別荘。その「浄月庵」は現在軽井沢高原文庫に移築、保存されている。
内部の見学が出来る。この中に2台のグランドピアノが入ったのか?


6月14日
昨日子供がレオ・シロタを訪ねると、今日お父さんに来て欲しいということであった。ドイツ製のピアノを1万5千円で買ってくれという。ベヒシュタインとスタインウェイのグランドピアノであるとか。(中略)1万5千円という金額は今手許にはないが、ピアノがなければ困るので買ってもよいと思う。ピアノのことはよく分からないので、平田さんの意見を聞く。
(略)
東京ではピアノの店は勿論、ドイツから輸入した部分品まで全て焼失したし、ドイツがこんなことでは、戦後輸入もなかろうから、ピアノは買っておくべきだが、東京では非常に下落している。1万5千円では高すぎるような気がするが、1万円にまけさせたらという話であった。
→2年前の秋に登場したピアノの売買の話であるが、依然続いている。終戦の2か月前、誰の目にも日本の敗戦が明らかな時期である。

6月15日
シロタさんの家では女中が庭の掃除をしていた。シロタさんも奥さんも休んでいるというので、しばらく歩こうかとためらっていると、2階からシロタさんがhow are you Mr. Serisawa?と声をかけた。ピアノは3台あるのではなく、某国の外交官が帰国するので売りたいということであった。

しかも帰国をいそいでいるので、3日間ぐらいに銀行に電報為替で送らせたらという。話なかばに奥さんも降りて来られて、(仏文、省略)というようなことを言っていたが、要するに夫人の考えでは余り高いと驚いていた。
→シロタは2台のグランドピアノを東京から持ち込んだ。(7ページ) 話題のピアノはそれらではなくて、間もなく帰国する外交官のピアノであった。この終戦間際に帰国する外交官はデンマーク公使、ラース・ティリツセで間違いないであろう。

シロタの妻の話した言葉がフランス語で書かれている。芹沢とシロタ夫妻はフランス語で会話したのであろう。(81ページ)

7月30日
長嶋クンとピアノの件を交渉。堤夫人は承諾したが、長嶋君のメンツのために3千円に2百円を加えて欲しいと。
→ピアノはシロタのものではなく、堤夫人のものとなる。堤夫人は千ヶ滝別荘地を開発した堤康次郎夫人か?価格も3千円と大分下がったのは、終戦も近いから投げ売りか?

8月17日
午前、沖野氏を訪ねてピアノを買ったことを報告する。帰途事務所に寄って長島君にピアノの持ち運び方を依頼する。事務所の人々は白米の弁当を食べていた。
→ピアノの購入が決まったのは終戦2日後である。戦争中を通じて芹沢の頭を煩わせた子供のためのピアノであった。
翌1946年9月20日の日記には「レオ・シロタの音楽会へ行けず」と書いている。
(2021年4月27日)


<加瀬俊一 外交官>

外交官として第二次世界大戦前後に活躍した加瀬に関して、筆者は「心の糧」で妻寿満子の証言を紹介した。(154ページ)
2020年『開戦と終戦をアメリカに発した男 戦時外交官加瀬俊一秘録』(福井 雄三)が出版され、そこに軽井沢が登場する。最近出た本から軽井沢の証言が見付かるのは珍しく、筆者には嬉しい限りだ。出典は同じなのか、かぶる記述もあるが、以下に紹介する。

「1944年夏、加瀬は妻子を軽井沢で過ごさせたが、来るべき空襲から家族を守るために、そのままそこに疎開させることにした。
寿満子は時々加瀬の世話をするため東京へ出かけたが、空襲が激化するにつれて列車は超満員が当たり前になり、買い出しの人たちで立錐の余地もなかった。
ただ軽井沢駅では近衛文麿公爵の特別列車がときどき連結されることがあり、その時には寿満子を乗せてくれるので、彼女は大いに助かった」
→近衛公の「特別列車」は以前筆者の見た資料では「仕立てられた」とあり、拙著で特別に仕立てた列車ではなく、外交官専用の車両のことではないかと書いたが、今回「連結される」とあるので、近衛の移動用に一つの車両が連結されたとが分かる。戦況の悪化で国鉄は1944年4月、1等車の連結を廃止したので、そうした車両が余剰になり充てられたのかもしれない。

「(1944年)12月29日、寿満子がたまたま近衛の近くに座ったとき、近衛は寿満子に近寄り
『重光外相と話し合いたいことがあるのだが、ご主人になんとか段取りをつけてもらえないか』と耳打ちした。
それを聞いた加瀬は重光に伝え、その指示で、熱海の大観荘を手配した」
日付が入っているのを見ると寿満子の日記が存在するようだ。またこの大観荘には加賀藩主前田家16代当主、前田利為の長女美意子(拙著115ページ)も一緒に訪問している。彼女は外務省で加瀬の秘書を務めていた。オノ・ヨーコは寿満子の姪になる。

「加瀬は近衛と重光を見送った後、寿満子とともに箱根の富士屋ホテルに向かった。軽井沢の冬の冷え込みは厳しい。めっきり体の弱くなった寿満子と幼い子供2人を軽井沢の別荘に帰すわけにはいかない。せめてこの期間だけでも暖かい場所に住まわせてやりたい。ホテルと交渉してなんとか2か月間だけ、部屋を取ることができ、妻子を箱根に移すことができた」
→寒さゆえに軽井沢から箱根に疎開先を替えたのはソ連である。(拙著60ページ)  軽井沢と箱根では寒さの度合いがだいぶ異なるようだ。
箱根の富士屋ホテルにはイタリア、タイの大使館員が疎開していたことが終戦時のリストから確認できる。また1945年5月にはホテル内に外務省の箱根連絡事務所が設置される。

「終戦から2日後の8月17日、加瀬は白米、桃、ナス、トマト、食用油をリュックに詰め込み、軽井沢に疎開している妻子のもとを訪れた。4人は手を取って喜びあった」
信越線が終戦前後も動いていたことは拙著で述べた。加瀬が携えた食料は外務省が蓄えていたものであろうか?

写真の軽井沢旧駅舎は1910年に建てられたものを再整備。「戦争を体験した駅舎」と言えよう(筆者撮影)
(2021年1月23日)



軽井沢ブループラークと戦時下の軽井沢>

軽井沢ブループラークは歴史的な価値を持つ建造物などを認定し継承していく制度だ。ネット上の町のリストを数えたところ97もある。町全体がブループラークとも呼べるところであるから、当然と言えば当然かもしれない。


軽井沢ブループラークの例。旧堀辰雄の別荘は1412番


ただしそこには場所の説明などはない。たとえば「旧加藤家別荘」というのがあるがどういう加藤さんで、どこにあるのかも分からない。想像するに多くの認定した建物は、今は一般の人が暮らしているので、物見遊山で来られたら困るということであろう。

その旧加藤別荘についてどうしても知りたくなった。ネットで調べると「文化遺産オンライン」などでは住所が載っているものの、それを地図で探しても見つからない。登記上の住所で、いわゆる一般の住所とは異なるのであろうか?

軽井沢ナショナルトラストの方にお聞きして、ようやく北海道帝国大(現北海道大)の教授だった加藤泰治が1929年に建てたもので、場所は釜の沢であることが判明した。(筆者は戦時中にマンロー医院の医院長を務めた加藤伝三郎の別荘かと思ったが、読みははずれた)

1939年からは「アンネ・エリザベート」の所有になったというが、1943年の軽井沢別荘地図では「加藤」のままだ。当時、地図はそれ程頻繁に更新はされなかっただろう。

堀辰雄の別荘があった方向だ。先日訪問したばかりだが、そんなことはつゆ知らず、足を延ばさずに去ってしまった。また行かねばならない。調査とはそんな無駄の積み重ねか?


堀辰雄の別荘のあったところ。

「旧加藤家別荘」には終戦時、無国籍のマックス・フリートレンダーと妻のゲルハルトが住んでいた。ふたりは元ドイツ人だがユダヤ系で1942年1月に国籍をはく奪され無国籍となった。1944年まで近所に暮らした堀辰雄とは顔を合わせたことがあるのかなあ、などと想像する。

続きは書籍でお楽しみください。こちら






















<松方ハルの別荘>

先に紹介した『ニッポン日記』には松方ハルも登場する。彼女は、明治時代に二度にわたり首相を務めた松方正義の孫であり、のちにエドウィン・ライシャワーと結婚することになる。

終戦翌年の1946年6月14日、ハルを含む一行3人が旧軽井沢の旅館に入ると
「松方女史はここで家を一軒持っており、町の人にも知り合いが多いので出かけて行った」。またその旅館を追い出された一行は
「その晩は結局、松方女史の家に泊めてもらった。その家は戦争中から板付けになったままだった。早夜の静けさの中に、男の子のか細い声が、ドイツ語を話しているのが聞こえた。
『ママ、あの空き家に誰かいるよ、何をしているんだろう?』」

この時ハルの別荘は軽井沢のどこにあったのであろうか?1943年の軽井沢別荘地図には見たところ「松方」の名前は無いようだ。一方今は「cafe涼の音」となっている旧軽井沢の建物は「旧松方家別荘」と町の設置した軽井沢プラークのプレートにも書かれている。またこの建物は1927年の建築だが、明治時代の別荘の材料を再利用して建てられたという。つまりハルの訪問いたときにはすでにここに建っていた。しかし戦争末期はスウェーデンの公使館であった。スウェーデン公使館は松方家から別荘を借りていたのか?1943年の軽井沢別荘地図では1138番は藤ヶ崎という名前で松方ではない。

一方軽井沢の別荘は、建物が道路からかなり離れているものが多いが、1138番は小道に面しているので、外のドイツ人の子供の声が聞こえることはあり得る。

『ハル・ライシャワー(上坂冬子)』には一家の住まいについて次のように書いている。
1942年 ハルと両親の松方正熊・ミヨ夫妻の一家3人は東京・港区西麻布の自宅から鎌倉の別荘に引きこもる。
1945年(5月) 松方家の鎌倉の別荘が本土決戦に備えた日本海軍に接収され、一家は母方の祖父・新井領一郎の故郷、群馬県勢多郡黒保根村鹿角へ疎開する。
1961年 三浦三崎に松方家の別荘があり、ライシャワー夫妻唯一の楽しみは、三浦三崎の別荘で過ごす週末であった。

つまりハルの一家にとって戦時中は、軽井沢の別荘は主な生活、避暑の場所ではなかったと推測される。一方祖父の正義は。非常に子沢山であり15男11女の26子があった。彼らのうち誰かが軽井沢に別荘を持っていて、そこを利用したことも考えられる。
1343番にエドウィンの父オーガスト・K・ライシャワーの名前が、1943年の別荘地図にも掲載されている。(現在軽井沢ブループラーク認定)
どなたかご存じの方、ご教示ください。

続きは書籍でお楽しみください。こちら













(2020年12月28日)


「cafe涼の音」の前のプレートには「旧軽井沢ハウス(旧松方家別荘)」と書かれている。



<糞集め>


心の糧』では妙齢のドイツ人婦人が馬の後を追いかけて、畑の肥料用の糞を集めていたことを紹介した。著名な日本人もそれをやっている。

1946年6月15日
(軽井沢を)出発前、来栖三郎を訪ねた。来栖が回顧録を『シカゴ・サン』シンジケートに売る意思がないか知りたかったからである。彼はまだ「すべてを語る心境にはなっていない」と言った。美しい2人の令嬢も加わって一時間ばかり談笑した。

来栖は戦時中軽井沢に滞在していた鳩山(一郎)の話をした。鳩山はまったく一生懸命畠を耕し、ときどきは来栖のうちにも野菜を届けてくれたそうだ。
「ここにいた上流婦人たちは、よく鳩山のことをこぼしたものですよ。『私たちの畠の肥しには困ってしまいます。鳩山さんが、日の上がる前にお起きになって牛の通る道にいらっしゃって、糞をみんなお盆に入れて持っていっておしまいになるんですもの。私たちが行く頃にはきれいに掃除したようになっています』」。
(『ニッポン日記』マーク・ゲイン)



<軽井沢高原文庫>


軽井沢高原文庫は塩沢湖畔に1985年8月に開館した当地にゆかりのある作家、詩人に関する博物館である。施設内には有島武郎別荘「浄月庵」堀辰雄1412番山荘、など文学者の別荘が移築保存されている。

そして定期刊行物として『軽井沢高原文庫通信』が年に2回発行されている。筆者はその大部分に目を通し、そこで見つけた戦時中に関するものを紹介する。

戦時下の軽井沢に関して筆者はすでに『心の糧(戦時下の軽井沢)』において、かなり詳しく述べた。本編はその補遺という位置づけである。

1 風間道太郎 
(平和運動家、伝記作家。 戦時中は大政翼賛会文化部副部長を務めるが、ほどなく退き農村生活を送る。)

「東京から家族ぐるみで追分に疎開してからちょうど1年たったころのある日、手元に残っている日記帳によれば1945年3月4日、日曜日の午前11時頃、疎開先の茅屋のガタピシする玄関の格子戸をあけて、見知らぬ青年が訪ねてきた。

オールバックの頭髪の上に黒のベレー帽をのせ、背の高いやせ型のからだに黒い背広服上下をまとい、黒の短靴をハいているその青年は”中村真一郎”と名乗り、”渡辺一夫先生の紹介状を持ってきた”と言った。
時局を超越したスタイルであった。青年は東大の文学部を卒業して文化学院の講師をしていた。」
第8号

後の小説家中村真一郎が終戦の年にオールバックの髪をしていたという事に驚いている。

2 カール・レーヴィット

「軽井沢のおけるナチズム 
毎年8月には、独日文化研究所のD博士によって、ナチス主義教員同盟の会議が開催された。本当に危険な人物は、日本の”文化の番人”D博士。軽井沢で日本の国家主義者と藤沢と鹿子木がDと共に演説する公開講演会を聴いた。」 
第9号

カール・レーヴィット: 1936年から東北帝国大学(現・東北大学)の教授として来日し、哲学とドイツ文学の講座を担当した。しかし、第二次世界大戦が勃発し、日本がナチス・ドイツと同じ枢軸国側に加わったため、1941に日本を離れアメリカへ移った。 (ウィキペディア)
1941年の日本参戦前の話である。D博士とは誰であろうか?
別稿「哲学者カール・レーヴィットが見たレーデッカー夫妻」はこちら

3 沖野岩三郎 (小説家、牧師)

「1933年夏からは避暑に来た家庭の児童のために、夏期学校として千ヶ滝学園を開設。1944年夏、東京での生活を打ち切り、軽井沢に疎開。花壇を畑に変えて野菜を栽培し、自給自足の日々を送った。」
第17号

1918年、堤康次郎は沓掛区有地の約60万坪を買収し、千ヶ滝の開発に着手した。千ヶ滝学院を開設し沖野岩三郎を園長に迎えて、別荘に滞在する子弟に勉学をすすめ、各種の教育を行ったという。

4 シュテルンベルク(『心の糧』 66ページ)
 
(1913年東京帝国大学法学部の招聘で来日、1950年死ぬまで日本で亡命生活)
「東大や慶応に出講していた時期は、潮風の(藤沢市)辻堂にいたが、夏は軽井沢に来て、万平ホテル傍の丘の上のロマンティックな家に独居していた。晩年は常住していた」
第21号

彼の別荘軽井沢1313番には無国籍 のアンナ・ヴォ―ゲル(芸術家)が暮らした。彼女もシュテルンベルク同様にドイツ国籍をはく奪されたユダヤ人と思われる。
ただしシュテルンベルクは終戦は辻堂で迎えたようだ。戦後GHQの調査には自らドイツ人ではなく、無国籍と答えている。

5 堀辰雄 (軽井沢を代表する小説家) (『心の糧』111ページ)

「(彼の別荘)1412番は現軽井沢サナトリウムの近くにあった。1941年、かねてより住みたいと思っていたこの山荘を、アメリカ人スミス氏より買い取った。

これは堀辰雄4番目の別荘にあたる。1944年まで毎年、初夏から秋までこの山荘に滞在した。この時期は健康状態も良く、若い友人らとベランダで文学論にふけったりした。1944年、健康状態の悪化などから、信濃追分の借家に移った。」
第22号

別荘内には「昭和16,17年ころ軽井沢の1412番別荘にて。
左より中村真一郎、森達郎、佐藤某、辰雄、中里恒子、多恵、野村澄子、吉川夏苗」
という写真が展示されている。中里恒子の別荘はゴルフ場、細川別荘のそばにあった。

軽井沢高原文庫に移築された別荘の説明は「スミス別荘(堀辰雄山荘)」となっている。(筆者撮影)

堀辰雄はエッセイ「木の十字架」で1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻したころの話を書いている。
補足を加えて要約すると次のようだ。

続きは書籍でお楽しみください。こちら














(2020年4月15日追加)

堀辰雄の別荘のあった1412番に向かう道には「堀辰雄の径(フーガの径)」という名前がついているが、その番地は現在は空き地で草が生い茂っている。


余談ながら別名の「フーガの径」は堀辰雄の小説『美しい村』の以下の箇所の由来するようだ。
「水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古けいこしているらしい音が聞えて来た。私はその隣となりのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を傾かたむけていた。バッハのト短調の遁走曲フウグ(フーガ)らしかった

しかし「水車の道」は軽井沢銀座の裏手にある道だ。この道はほぼ平坦だが、小説ではその少女が水車の道の方へと昇のぼってゆくのを見逃みのがしたことはなかった」と坂道であることをうかがわせる。創作が入っていようか?
また堀が1412番に移ったのが1941年、『美しい村』を書いたのが1933年、この点からもここでフーガを聞いたとする後世の解釈は正しくないと思われる。
(2020年11月24日)

6 久野収 (哲学者)

「僕の軽井沢といえば、やはり戦中の記憶の中にあざやかに刻印されている軽井沢である。僕が往来したのは、1940年から数年間であり、岩波茂雄さん羽仁五郎さんに招かれて滞在した。

若い女性たちは、ジャワ更紗のさっぱりしたワンピースを着て、自転車に乗り、テニスコートや相互訪問に自動車の見えない街路をさっそうと往来していて、まことに爽快であった。」
第26号

7 矢島翠 (評論・翻訳家)

「軽井沢が突然、違った顔を表したのは、戦争中の疎開の時である。”夏休みの地図”には載っていなかった小学校に、私は歩いて通うことになった。

野の花を集める代わりに、軍需物資の酒石酸をとるという山ぶどうや、軍の医薬品になるらしいゲンノショウコを山で採るノルマを割り当てられた。そしてやせた土地の上に来た冬は、きびしかった。」
第27号

8 村松英子 (女優・詩人)

「母方の大叔父、英文学者で山の文学者、田部重治はP・ヴァレリイに似た風貌で、戦時中も専門のペーターの原書を抱えて山歩きをしたためスパイと間違えられたそうだ。

それで”スパイではない証明書”を発行してもらって持っていたので余計疑われたという。1945年5月頃から1947年12月ころまで信濃追分の別荘に疎開した。」
第27号

9 芹沢光治良 (小説家)

「1930年以来、60年余りの間、健康上の理由から標高1000メートルの軽井沢の地で夏を過ごすのを習慣としていた。」
第31号

10 片山廣子 (歌人、随筆家)

書簡
「1945年8月14日 おそらく軽井沢つるや旅館内より差し出し。 山川柳子様  軽井沢町追分28
東京も見納めのつもりで帰って来た。上越線も出ません時で、信越線の混雑は何とも申しようもなく地獄でした。」
第31号

11 三笠宮崇仁 (昭和天皇の弟)

「私の家は1945年5月の空襲で全焼し、その後は焼け跡にバラックを建て生活していた。軽井沢を初めて訪れたのはその秋のことであったから、そこは全く別天地で、そのすばらしさをいっそう感じた次第である。」
第33号

(2019年10月8日)



<山口瞳>

作家山口瞳は交流のあったロイ・ジェームスについて『蒼い目の日本人』の中で語るが、自身について
「当時、私の家は軍需成金で、軽井沢に別荘があり、食糧に困るようなことはなかった。」と書きつつ、大変な苦労をしたロイに対して後ろめたさを感じた。
(2019年11月29日)



<千葉泰樹 (映画監督)>


ロイ・ジェームスの妻湯浅あつ子は「(ロイは庭で)木こりをさせてもらいながら、沢山の蔵書を貸して下さった千葉泰樹監督夫人の温かい思いやり」と書いている。(『ロイと鏡子』)
(2019年12月3日)



<伊集院静 作家>

作家伊集院静は独身時代の1978年冬から7年あまり「逗子なぎさホテル」に住む。その間にホテルの主人”I”と懇意になる。ホテルは1926年に岩下家一子爵によって創業されているので、”I”支配人は岩下家の2代目であろうか?
伊集院は『なぎさホテル』の中で軽井沢の旧マンロー病院について触れている。同病院については拙著『心の糧』126ページで紹介しているほか、別稿『GHQの記録に見る終戦直後の軽井沢』でも写真を載せている。ここでは戦後の話であるが、マンロー医院のその後として興味深いものである。


続きは書籍でお楽しみください。こちら




















(2021年5月25日追加)

なぜ逗子のなぎさホテルが軽井沢にホテルを経営したかのかは、次の通りかもしれない。

「菊屋」は羽田如雲という奇怪な人物の経営で、ここで働く浅地庄太郎は軽井沢の店を取り仕切って頭角を現す。旧道通りで簡易な洋食を食べさせるのは菊屋一軒で、これは浅地の才覚であった。
(「軽井沢別荘史-避暑地百年の歩み-宍戸実」より)
浅地はその後、逗子なぎさホテルの4代目の社長になる。浅地の軽井沢への思い入れが、かつてのマンロー医院のヴィラとしての経営に向かわせたのかもしれない。
(2021年8月2日追加)

トップ このページのトップ