日瑞関係のページ HPの狙い
日本 スイス・歴史・論文集 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

日瑞関係トップバーバラ寺岡(第6回)中西賢三(第7回) ポール・ブルーム(第4回)コンタクト

欧州邦人気になる人(第5回)
小松ふみ子再び 
Fumiko KOMATSU Again
大堀 聰

<序>

筆者はこれまで戦時中パリに留学していた小松ふみ子(以下ふみ子)について、幾度か触れてきた。
終戦後間もなくしてフランスではなく、アメリカに渡ったがふみ子の変心が自分の中でひっかかり「欧州邦人 気になる人」として取り上げた。
またフランス留学中に関し「戦時下フランス、全女子留学生の写真」という写真から彼女を特定しようとした。加えてはパリからベルリンに避難したものの、すぐにウィーンに赴いた時のことを「西村ソノ」の中で書いた。しかしどれも隔靴掻痒の感がぬぐえないのは史料不足によるところが多い。さらには1950年にアメリカに渡って以降は、ぱったりとふみ子の足跡は途絶えた

今回新しい、しかも数多くの史料に接することができたキーワードは「小松ふみ子」ではなく、「Fumi KOMATSU」であった。彼女に関する史料が、フランス、およびアメリカに英語、フランス語で残っているのだ。しかもその内のいくつかはローマ字でグーグルに入れることで、接することができたのだ。

この非日本語のふみ子に光を当ててくれたのはアイルランド出身で台湾在住のロナン・ファーレル氏(Ronan Farrell)であった。ファーレル氏はおそらく世界で一番、小松ふみ子に関心を持ち調査を続けている。そして筆者にはいくつかの史料を気持ちよく提供してくれた。ファーレル氏には感謝してもしきれない。また自戒を込めて書くと、インターネット内の検索は、注意しないと次から次へとまさに沼にはまったようになる。



<写真>


後述するが、ふみ子が1950年にアメリカに渡ることができたのは、ロックフェラー財団が支援する国際芸術プログラム(International Arts Program)日本代表として、参加出来たからであった。“National Commission News”という冊子に、その際、メトロポリタン美術館で開かれたレセプションで、笑いながらオランダからの参加者の名札をチェックするふみ子が写っている。こちら (出てくる男女二人の写真ではありません。右上の写真です。少し上にスクロールしてください。)

それは筆者がこれまで唯一持っていた「背が高く体格の良い女性」という彼女の情報にピッタリとマッチする。先に紹介した「戦時下フランス、全女子留学生の写真」に写る6名の日本人留学生の中で、筆者はこの体格の情報及び、顔を識別できる女性を消去していくことで、一番右の女性がふみ子であろうと想像した。しかし今回新たなふみ子の写真を見ることで、それは確信に変わった。



<フランスの新聞に載る>


日本が米英に参戦して間もない、1942年3月1日”ル・オンド”(Les Ondes)という新聞に「パリの日本人」という記事が載る。その中に2人の記者からマイクを向けられ、ほほ笑むふみ子の写真がある。こうして筆者は相次いでふみ子の写真に接することが出来た。

記事の内容は次のようだ。
「小松嬢を訪ねて、外国人の多いラテン地区のホテルに向かった。小松嬢は奇妙な刺繍の入った”着物”を来て、我々をまるで仲間を迎えるように親しげに迎えてくれた。」
記者は外国人にも物おじしないふみ子の態度に驚いた。また写真を見ると”奇妙な着物”は、筆者の目にはチャイナドレスだ。彼女はアジアの古い衣装について研究をしていた。

次いで「小松さん、フランスの女性についてどう思いますか?」と質問され、
「自分の考えでは、たくさん日本女性と共通点があり、また同じく相違点がある。そしてこの厳しい時代にも笑顔を絶やさない彼女らの勇気には感心します。」
と答えた。



<幻の翻訳>

マドレーヌ・ブレス(Madeleine Blaess)はイギリスで教育を受けたフランス人で、ソルボンヌ大学でふみ子と一緒だった。マドレーヌは戦時下のパリを日記に書き残している。英語で書かれ、何度かふみ子が登場する。マドレーヌから英語を個人レッスンで習っていた。多くは「マドモアゼル小松にレッスン」と書かれているだけだが、次の2日分には少し状況が描かれている。
1943年8月6日
「マドモワゼル小松のレッスン。非常に疲れる。というのは日本人の脳は我々と違うので、簡単なことすら例を挙げ、細かく説明しないといけない。」
フランスに留学するほどであるから、ふみ子はかなり欧州の文化に慣れているのかと思ったが、それでもマドレーヌは文化の違いに直面している。

同9月10日
「小松のところに行く。彼女は日本の外交官が日本に帰る今月末までに、ブノワ・メチン(Benoiste Méchin)の“1940年のフランス降伏後の日常(La Moisson de ‘40’) ”を訳さないといけない。よって来月までレッスンなし。(自分の懐にはよくないこと)」

さて、日欧間の往来が実質途絶されていたこの時、日本に戻った外交官はいたのであろうか?調べるとシベリア鉄道経由で帰朝するため、10月1日にパリを発って、まずはトルコのアンカラに向かったのは千葉蓁一(ちばしんいち)参事官だ。話はピッタリ符合する。

しかしソ連は千葉参事官には通過ビザを発給せず、トルコで終戦を迎えた参事官は前途を悲観し自殺する。ふみ子の原稿は実際に千葉公使に託されたものの、トルコで混乱の中紛失したのであろうか?

ジャーナリストであるブノワ・メチンは対独協力ヴィッシー政権の中枢にいた。よって日本とも協力関係だ。そんな人物の日記をふみ子が自発的にしたとは思われない。依頼したのは現地の日本大使館で、対外宣伝用に利用を考えていたので、戦時下に外交官によってわざわざ運ばれたのであろう。

なおこの本は先に紹介した「1940年のフランス降伏後の日常」という邦題で出版されている。翻訳は翻訳家・ジャーナリストとして名前の知れた井上勇。ふみ子が訳したとされる原稿との関係は不明だ。



<渡米の事情>


ふみ子の渡米に関しては石垣綾子が書く「世界各国より来た芸術家の19名グループの一人にて、国際教育協会の招待を受けた。」という情報しか筆者は持ち合わせていなかった。

今回分かったのはこのプログラムはロックフェラー財団の助成金で、「国際教育協会(Institute of International Education)が組織した「 国際芸術プログラム(International Arts Program)」の日本代表として、参加するためであった。

19名の若い参加者の中で、ふみ子は日本から唯一の出席者であった。“若い”と書くのは主催者の説明からであるが、ふみ子はこの時39歳である。彼女が日本代表に選ばれた経緯も不明だ。彼らは3か月のアメリカ滞在中にアメリカの芸術家、作家に会い、劇場等を訪問する機会が与えられた。先の石垣の記述を補足してくれる。

ロックフェラー財団のアーカイブには興味深い、ふみ子との会話記録が幾つか残っている。まずは渡米に関することでは1950年11月15日 「ふみ子は国際教育協会のマネージメントに関し不穏なことを語った」と始まる。それによると事前の国際教育協会のの話では、アメリカまでの往復費用はふみ子が負担ということであった。

しかしサンフランシスコからニューヨークまでも負担するように国際教育協会に言われた。さらには米国内の旅費援助額はほかの参加者より少ない。よって彼女はプログラムを続けるため、自分の私物を処分してお金を工面しなければならなかったと訴える。真珠とかの宝飾品を売りさばいたのであろうか?

終戦間もないこの時期の円は対ドルの価値は全く弱い中、自費でアメリカに渡ったというのは驚きだ。イメージとしては実家が家を抵当に入れるとか、田畑でも売らないと調達できない金額だ。そんな中、予定以上の支出があることは、ふみ子には本当に辛い話だ。



<米国内での活動>


次も石垣の日記だ。ふみ子のアメリカでの行動について「アグレッシブで、有名なアメリカ作家に会うことを唯一の仕事と考えている。」と書く。

これも先のロックフェラー財団のメモから背景が見える。そこでは「旅費負担の問題よりひどいことは、彼女に誰もしっかりしたガイダンスをしなかったので、やりたいようにやっている。」と主催者である国際教育協会を強く批判している。

「それが彼女の立てた怪しげな旅行計画にも反映されている。目的は偉大な作家へのインタビューを通じてアメリカ文学を研究するというものだ。そのためすでにソーントン・ワイルダー(Thorton Wilder)、 ロバート・リー・フロスト(Robert Frost), アン・ペトリ(Ann Petry), ジョン・アーンスト・スタインベック(John Steinbeck)などと会話した。11月16日にはワシントンに出かけ、ジョン・ロデリーゴ・ドス(Dos Passos)に会い、その後はミシシッピーでウィリアム・フォルクナー(William Faulkner)に会う予定だ。」

そして次のように締めくくる。
「質問されても彼女はこの研究テーマをしっかり説明できない。おそらく、誰もちゃんとアドバイスをしてくれなかったから、と答えるだろう。」

石垣が書くように、まさに偉大な作家へのインタビューが彼女の目的であった。本人はそう周りにお公言したのであろう。筆者が解説なしで分かるのは、スタインベックくらいだが、いずれもアメリカを代表する作家、詩人である。ただし日本で記事になったのはこのうち「群像」1951年6月号の「W・フォルクナー会見記」だけだ。フォルクナーはノーベル賞を受賞したばかりだった。アメリカの一流作家でも、日本のマスコミはふみ子の予想通りに触手を動かさなかったということか?とすると彼女の目論見は外れた。



<アメリカ滞在へ>


彼女は財団の担当者に12月1日に取材旅行からニューヨークに戻る時に、そこでの滞在場所の面倒を見てくれる人のアドバイスを希望した。そしてロックフェラー財団からの資金を得るか、別のソースから少なくとも2月まで働き口の世話を希望した。

担当者はニューヨーク在住の以前の財団のフェロー(特別研究員)の住所を与えた。その女性の名はミネ・オオクボ( Mine Okubo)、日系2世の画家でイラストレーター、戦時中は収容所に収容されていた。

12月12日、ふみ子はまた財団の担当者と話をする。
ふみ子はニューヨーク大学(NYU)への手続きを済ませた。ブルネッティ教授(Mendor. F. Brunetti)から個人的サポートを得たと伝えた。ロマンス諸語の専門家だ。おそらくふみ子はアメリカに渡る時から、プログラムが終わる3か月で日本に戻る気はなかったはずだ。彼女は重ねて1951年の春までアメリカに残れるような可能性を要求したが、相手は「自分は何もコミット出来ない」と答えた。

担当者はその際、ふみ子にパリから戻ってどんな作品を残したのか?と尋ねている。作家としてのふみ子に不信を持ったのであろうか?ふみ子は自著「ベルリン最後の日」の他に、いくつかの翻訳した本を挙げているが、決して作家と呼べる分量ではない。

また担当は「彼女は6年間パリで過ごし、ソルボンヌ大学の博士号を得た。見たところ彼女はロックフェラー財団のフェロー、オショコルネ?(Hauchecorne)の親友だ。」と書く。この人物が石垣の友人が「あの人が来たのはたぶん、その力量よりも、プルがあったからだと思う」と書く実力者であろうか?

翌年1951年6月11日、ふみ子が電話してくる。
「ニューヨーク大学の奨学金を得ることができたので、これを基に1952年2月までビザを延長できる。」と、とても喜んで財団者の担当に伝えた。しかしその奨学金の援助は十分ではないので、ロックフェラー財団から月に50~100ドル援助できないかと求めた。それに対し担当者はその可能性はないとはっきり伝えた。ふみ子は残念ながら財団から好意的にみられていなかった。そしてふみ子が石垣を訪問するのはこの少し前の3月のことだ。

同年12月5日、ふみ子がやって来る。
彼女の奨学金は学期を通してもらえるのだが、パスポートはその前、来年の4月で切れる。入国管理局はパスポートの切れる2か月前に国外退去を求めるので、2月には彼女は帰国しないとならない。そこで幾人かを介して、国際教育協会に働きかけてきた。

しかし国際教育協会の見解は「彼女はすぐに日本に戻るべき、よって国際教育協会は2月以降の滞在への仲介の労は取らない。」とここでも突き放される。40歳のふみ子にとっては試練の時であったろう。しかし彼女はアメリカに留まる。あるインタビューに答えて「自分にとって日本はとても窮屈で、制限をくわえられたものに感じている」とふみ子は語っている。このパスポート延長の問題をどのように切り抜けたのであろうか?



<画家に転身>

その後の足跡は依然不明な点が多いのだが、以前に書いたように1954年ころには、彼女の家には自分が描いた、魯山人も一目置くような絵が掲げられている。

また1960年代、日本人の作家の本がアメリカで出版される際に、表紙のデザイン、文中のイラストをふみ子が担当している。
「Thousand Cranes(千羽鶴)」川端康成、
「The Temple of the Golden Pavilion(金閣寺)」三島由紀夫 
などだ。出版社はデザインに日本的なものを求めたので、ふみ子に白羽の矢が当たったのであろう。またこれもファーレル氏の情報だが、1979年のサザビーのオークションカタログにもふみ子の絵が出品されているという。

サザビーにはふみ子が所有する魯山人の「ペアの皿」の出品もあった。魯山人の1954年の訪問時に、土産として渡したのであろうか?

ふみ子と同じく1950年の「国際芸術プログラム」フランス代表はミシェル・デオン(Michel Déon)だった。晩年、彼の書斎の背後の一番目立つ場所にかかる油絵にはFumiのサインが入っている。

ふみ子は1951年から1年、ニューヨーク大学では文学を学んでいることは間違いない。しかしその後画家、イラストレーターに転身したのだ。考えられるのはニューヨークで世話になった日系2世の画家ミネ・オオクボの影響だ。しかしほんの数年かじっただけでは、生活していくことはできないであろう。アメリカ男性と結婚して経済的基盤を得たのであろうか?

今回はファーレル氏の情報を基にここまでたどり着いた。日本がサンフランシスコ条約に批准する前、占領下の日本から自費でアメリカでの会議に参加して、自分の力でアメリカにとどまった小松ふみ子の強い意志を、筆者は感じざるを得ない。
日本に親戚の方とかいたらぜひ上の「コンタクト」から連絡をいただきたい。
(2020年3月28日 コロナウイルスで外出自粛の日)

筆者の書籍の案内はこちら
下記の拙著で小松ふみ子を取り上げております。
第二次世界大戦下の欧州邦人(フランス編)

トップ このページのトップ