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日本の宣戦布告と横浜の敵国外交官
Japan's declaraiton of war and diplomats of enemy nations in Yokohama
大堀 聰
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<戦争勃発まで>

戦争が勃発した時、相手国に滞在していた国民は、虐待を受ける事はなく、敵性国民として抑留される。戦時国際法が一般市民(非戦闘員)を攻撃することを禁じているからだ。戦争状態においても最低限の国際ルールがあった。

1941年12月8日、日本が米英に対して宣戦布告を行ってから、横浜に駐在していた外国人、特に外交官はどのように扱われたのか?本編では比較的よく残されている神奈川県外事課の資料を中心に読み解いていく。

戦争勃発前の同年年7月28日に神奈川県警察部長の名前で「緊急事態発生時対策」を定めた。戦争が勃発した場合の対応策である。対象となった国はイギリス、アメリカ、オランダ、フランスなどで差し押さえ等が必要な物件は283件、対応に当たる警察官らは566名と定められた。

計画は細かく立案された。例えばイギリスの場合は加賀町警察署が英国総領事館、香港上海銀行チャータード銀行、ライジングサン社等計25箇所を担当。更に山手署が英国総領事官邸他104箇所を担当する手はずであった。山手署の担当は個人のイギリス人宅である。

続く9月30日、神奈川県在住「敵性外国人」として計588人の名前が挙がっている。戦争はしてはいないが、すでに敵扱いというわけだ。筆頭はイギリス人262名で、アメリカ人148名が続く。

こうした国ではすでに何度か帰国勧告が自国民に向け発せられていたが、長い滞在、結婚、仕事などで深く日本と結びついていた人にとっては、容易には帰国出来ない状況であった。また外交官も自国民の保護のため先に引き揚げるわけにはいかなかった。

横浜開港以来、外国人が多く暮らす横浜には、東京の大使館、公使館とは別に、在留自国民の保護を目的で、多くの国が領事館を開設していた。そうする内に12月8日を迎え、日本は米英に宣戦布告をする。



<抑留対象者>

日本が参戦する少し前の1941年11月28日、内務省の警保局長より警視総監、各都府県長官に宛て「外事関係非常措置に関する件」という通達が出される。

そこにはある国と戦争状態となった場合に抑留すべきも者として
*敵国の軍籍にあるもの。
*敵国人たる船員及び航空機の乗員またはその資格あるもの。
*敵国人中18歳以上45歳迄の男子。
*特殊技能者(無線技師、軍需工場の技師等)。
*それ以外の外諜容疑者。
と挙げ、さらには備考が続く。

*アメリカ人にはハワイを含みフィリピン人を含まず。
*イギリス人にはカナダ及び豪州人を含み、インド人、マレー連邦人、及びビルマ人を含まず。
*ソ連邦人中には白系ロシア人を含まず。
*日系米国人は日本人に準じ取り扱うこと。
*二重国籍者中、日本国籍を有する者は日本人として取り扱うこと。
*仏国人中にはベトナムその他の仏領インド支那人を含まず。
*オランダ国人中には蘭領インド人(インドネシア人)を含まず。
(『ゾルゲ事件史料集成』加藤哲郎)

植民地の人間は抑留対象とはならなかった。またソ連についての言及があるのは興味深い。また18歳以上45歳迄の男子と書かれているが、外交特権を持つ外交官についての具体的な記述はない。しかしながらこれから書いていく様に、外交官も全員抑留された。
(2020年1月1日追加)



<アメリカ、イギリス領事館>

アメリカ領事館は中区山下町6(現在ホテルモントレ横浜がある)にあり、著名なJ.H.モルガン建築設計事務所により1932年に建てられた立派な建物であった。

この日アメリカ領事館には午前11時、神奈川県より憲兵隊員が電話局および東京都市逓信局無線電信係員を伴い訪れ、アメリカ人館員7名、邦人雇い(男9名、女6名)を館内において収容し、外部との連絡を遮断、戦時措置を実施した。そしてその後警察官6名、警防団員6名を警戒にあたらせた。先の「緊急事態発生時対策」に従って、”スムーズに”日本側の差し押さえが行われた。

電話線の切断、短波ラジオ受信機に封印する目的で電話局、無線電信係員が同行したわけだ。また警察官はアメリカ人を監視する一方、興奮した日本人が、アメリカ領事館に乱入する事などがないよう警備に当たった。

同日午後2時、今度は神奈川県外事課長が領事館を訪れ、アービング・リンネル総領事(Irving Linnel)に対し、日本は公正な態度を取ることを説明し、収容上の注意を与えた。これは戦時国際法に基づく対応を取るという説明であろう。交戦国側に残された日本大使館の外交官も同様に軟禁されるから、対応は慎重であったはずだ。

この時リンネル総領事は62歳であったが、副領事以下全員が25歳から27歳の若者なのは、非常時に備えた態勢であろうか。旅券係、船舶係、通訳、こうした業務担当が最後まで残っていた。また日系米人の堀越修一他3名が書簡係、タイピスト、電話交換を担当していた。

見て来たように領事館の接収を担当したのは陸軍に所属する憲兵隊であった。一方神奈川県警では、この頃、共産主義など思想取り締まりを行う県警察部特高課は総勢56人を擁し、スパイなどを扱う外事課も53名と、地方警察としては全国で最も充実した陣容をそろえていた。


ホテルモントレ横浜のロビーにあるアメリカ領事館のイラスト。

続いてイギリス領事館(中区日本大通り3)でも11時に、日本側によって館員(男3名、女2名)、邦人雇い(男3名、女8名)が収容される。そして外事課長はアメリカ領事館訪問後の午後5時、総領事R.M.オースチン(R. M. Austin, 54)に対しアメリカ同様の説明を行った。



1931年に建てられた当時の建物が今も残り、現在横浜開港資料館となっている。(筆者撮影)


総領事室 訪問した日はたまたま公開されていた。(筆者撮影)

そしてアメリカの外交官は領事館を収容所としてそのまま留まるが、イギリスは12月12日、館員は全員オースチン総領事宅(山手町189)に移され、総領事館は封印される。アメリカの領事館は領事の居住する公邸も同じ建物内にあり居住に適したが、イギリスは別の場所にあり総領事館での生活は不便であったからであろう。



1937年に建てられた建物は今、「横浜市イギリス館」として開放されている。(筆者撮影)

注:外事課の記録ではアメリカは領事館を開設し総領事がいて、イギリスは総領事館で総領事がいたことになっている。



<敵国の拡大>

12月8日に日本が敵国として編入したのはアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアの4か国のみであったが、その後
12月10日 オランダ、ハイチ
12月11日 メキシコ
12月12日 チリ
と拡大し、17日より月末にかけてはさらにパナマ、コスタリカ、ホンジュラス、グアテマラ、ニカラグア、ドミニカ、キューバ、ベルギー、ギリシャ、コロンビアと広がる。そして神奈川県によってこれらの国々の領事館に同様の対応が取られていく。収容が順次行われたのは一斉の対応が不可能であったからであろうか?

戦争状態となったオランダは、1940年5月に本国はすでにドイツに占領されていたが、ロンドンの亡命政府が抗戦を継続していて、彼らが日本への宣戦を布告した。

オランダ領事館は中区山下町25にあったが館員はいなかった。そしてメンノ.ウィルスム(Menno Simon Wiersum, 63)領事の私邸(山手町239)が収容場所となる。
同居者として妻シメ.ウイルスム (56)(日本人)旧姓中岡
館員 コルネリス・ウィルスム (61)
さらに日本人中岡キヨ(領事妻、シメの亡き弟の妻)とその子供2名がいた。

領事は生粋の職業外交官ではなく、横浜で商社を営んでいて、現地で指名された領事だ。よって弟も館員で日本人妻の親族が同居するなど、特殊な状況になっている。ここを巡査2名が警備に当たった。

さらにオランダの東京公使館関係者としてフイリツプ・テツセン(36)が磯子の自宅で肺結核のため、ベッドに臥していた。そこにも巡査1名が警戒保護に当たった。

山下町25番は1930年に外国人専用のアパートメントホテルとして建てられ、今も現役のインペリアルビルだ。このビルにウィルスムが社長を務めるM.S.ウィルスム商会とオランダ領事館が入っていた。



現在のインペリアルビル(筆者撮影)

メンノ.ウィルスムに関しては筆者の別稿「長安寺と初代オランダ領事館の織布」(こちら)とブログ(こちら)参照。



<中南米諸国>

その後の南米外交官はほぼ全員が、山手の私邸で収容される。開港以来、港に近い山下町に事務所を置き、丘の上の山手町に私邸を構えるのが、多くの外国人の生活スタイルであった。そして家にはアマ、コックを抱えていた。アマとは中国人の“女中”を意味し、当時西洋人の間では広く雇われた。また山手でも実際に中国人の女中は多かった。外交官は収容の身となり、アマが買い物など、身の回りの世話をしたのであろう。

また巡査が警戒に当たったのも同じだ。当時山手に住んだドイツ人が、急に「あちこち街角に警察のボックスが建った。」と回想している。対象の家の前にボックスを建てて、そこで警備にあたった。山手では次の収容が見られた。

コロンビア総領事 グレゴリオ・アルメンカと妻 
中区山手町46番の私邸。

ベネズエラ総領事カルロス・ロドリゲスと妻
山手町20番の私邸。総領事館は東京にあったが、総領事は山手に住んでいた。別に横浜にはベネズエラ名誉領事事務所(中区吉田町10)があったが、日本人事務員2名のみがいるだけであった。

ブラジル領事ジョセー・ゴミデ・ショニオール他家族3名
山手町237番の私邸。

ブラジル副領事ルイス・ソーリ・バンデイラと妻
山手町89番の私邸。

ボリビア総領事ホセ・ルイス・サラビア
山手町265番の私邸。   

さすが開港以来外国人が住み続けた山手らしく、外交官も多く家を構えていた。



<その他領事>

山手以外では次のような例があった。
ペルー領事アルフレッド・レルトラ
山下町ホテル・ニューグランド208号室
ここにも巡査2名が警備に当たった。ホテルの部屋の前で、交代で立ったという事か?

メキシコ総領事館はアメリカ領事館の中にあった。12月12日に戦時措置を実施したが、総領事カルロスは、12月8日横浜正金銀行本店より5万円を、翌9日更に2万円を引き出し、館費及び職員への給料を支払い、約6万円を所持して同日正午後頃、女秘書ドイツ籍マーガレット・リーベススキント(Margaret Liebeskind)を同伴、東京のメキシコ公使館に赴いた。そしてそのまま公使館で収容された。非常時において、総領事は果敢に行動した。

リーベススキントはこの時から警察に目を付けられたのか、1944年8月31日にスパイ容疑で逮捕される。メキシコ総領事館勤務時代にスパイ行為をしたというものであった。随分と古い案件での逮捕である。

ベルギー名誉領事館(山下町86 ワトソン会社内)
名誉領事は英国人レッパーで、第一収容所に抑留されていた。正規の外交官の資格を持っていなかったのであろう。

ドミニカ名誉領事館(山下町ニュートンホテル)
名誉領事はエクアドル総領事ラモン・イカサに委嘱されていた。彼は東京帝国ホテルより通勤していて、19日イカサ立ち会いの元、封印を施し閉館された。

ギリシャ名誉領事館(中区山下町カナダ汽船会社内)
館員の姿は無かった。

ポーランド前横浜領事館ミーレヤイスロウ・ザバスニク他2名  
中区本郷町で収容。オランダ同様、ロンドン亡命政府の任命者であろうか?

付け加えると1941年10月6日、すでに開戦が噂されるこの時期、新アルゼンチン横浜領事ヘルナンド・A・ビダビヘレが来日する。アルゼンチンは当初は敵性国家でなかったから、この時期に新任の領事が赴任してきたのであろう。開戦時は中立を維持し、1945年3月になって初めて日本に宣戦する




<ホテルでの収容>

横浜市内ではないが、神奈川県下では箱根宮ノ下の富士屋ホテルで、37名の主に東京の外交官が本国への送還を待つことになる。
英国大使 ロバート・クレーギー一家(資料の別の箇所では住まいは東京の大使館内となっている。)
ベルギー大使一家 オーストラリア公使一家他

またホテル・ニューグランドには15名、関西方面から移動してきて同じく送還を待つことになる。
アメリカ大阪領事館員、神戸領事館員、ブラジル神戸総領事代理、ペルー神戸領事、パラグアイ神戸名誉領事である。



<民間人>

一方民間人は、開戦と同時に自分の住居から駆り立てられ、中区根岸の横浜競馬場付属建物と外国人スポーツクラブ「横浜ヨットクラブ」に抑留された。全国的に見て神奈川県が一番多く、両施設合わせて93人であった。

当初の扱いはそれほどひどくはなかったと収容者は証言している。また同時に外諜(スパイ)容疑者として全国で111名を検挙した。神奈川県では1942年5月現在アメリカ人6、英国人11、日本人27、その他7名であった。彼らは刑務所に拘置された。民間人の抑留については『敵国人抑留』小宮まゆみが詳しく調べ上げている。

中区本牧に住みユダヤ人の血の入るドイツ人、ルートヴィッヒ・フランク(Ludy Frank 横商教授)はこの日本参戦の日に山手に向かって、民間のアメリカ人が連行される様子を目撃した。

1941年12月8日、その日ブラフの教会へ坂を上がって行った。そこは私たちが結婚した教会だ。そこからさらに、もうすぐ帰国するアメリカ人の友人の所に寄って、毛布をもらうつもりだった。

その時サイドカー付きのオートバイが集まっているのを見た。憲兵隊(原文はMilitary police)だ。各方面に散らばる所だった。友人の家に着いたとき、ちょうどその内の1台のサイドカー付きオートバイが停まっていた。

そして友人は手を縛られ、家を出されるところだった。自分はその家には入らない方が良いと咄嗟に思った。憲兵隊は全ての残っていたアメリカ人、イギリス人、アイルランド人の修道女を連れ去り、ヨットクラブに閉じ込めた。(Honored and Dishonored Guests)

外交官と違い、民間人は連行されるとき紐で縛られた。また当時の憲兵隊がサイドカー付きのオートバイに乗っていたことが分かる。

初期の抑留はまだ緩やかな所があった。民間人が抑留された「横浜ヨットクラブ」の警備に従事していた遠藤保は後に語っている。
「1941年のクリスマスイブは抑留者ひとりあたり1円70銭のご馳走が出た。大きな厚いビフテキでした。警備の警察官の食事は1食30銭ほどなんですから大変な違いでした。それでも彼らは満足していなかったようです。”要するにレベルの違いだったわけでしょう。”」(「神奈川県警察史 中」 2020年6月27日)



<アメリカ館事館員の殴打事件>

1942年2月18日、日本軍がシンガポール陥落させた祝賀に際し、横浜アマチュア・ローイング・倶楽部に収容中の米英民間人27名に外出の許可が出た。

そして神奈川県外事課員及び所轄署員立ち会いの下にアメリカ領事館前において、領事館員と抑留者の団体面接が行われた。旅券係のW.R.チャイルド(Richard W. Child, 27)も自分の飼う犬を連れて領事館員の隊列にいた。

ところがその犬が領事館の道を挟んだ向かいの山下公園内に逃げたので、チャイルド警察官の許しを得ずに追跡した。警察官が制止するや、興奮のあまり同警察官の顔面を殴打するという、まるで映画の中の様な事件が起こった。

彼はすぐに加賀署に検束されたが、悪質な意思は認められないとのことで2月24日、リンネル領事より身柄請書が出され、帰館が許された。
(外事月報 2019年9月6日追加)



<戦時交換船による帰国>

こうして敵国に収容された外交官らを、第三国の仲介で交換しよう、という動きは戦争勃発間もない、1941年12月17日に始まる。その結果1942年6月17日に日本からは浅間丸とコンテ・ヴェルデ号が出帆することに決まる。

実際に6月17日に横浜港で内地、外地及び満州国駐在アメリカ側公館員、並びに一般在留者の一部が浅間丸に乗船したが、スイスを介してのアメリカとの種々調整に時間がかかり、6月25日午前1時30分に出帆する。

乗船したのはアメリカ、カナダ、パナマ、ニカラグア、ブラジル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、エクアドル、コロンビア、ベネズエラ、ホンジュラスの外交官と民間人の一部であった。外交官は優先され、これまで述べてきた対象国外交官は全て帰国の途に就いた様だ。

ただし船客のリストにはアメリカ領事館で勤務していた米国2世の名前はない。彼らは日本国籍を持っていて留まったのであろう。アメリカ領事館に勤務していたという事で、戦時中はどのように扱われたのであろうか?

また民間人の帰国者は神奈川県で35名であった。これで帰れなかった民間人は終戦まで抑留生活を送ることになる。

次いで日英間の交換船は龍田丸と鎌倉丸であったが、日本国内の対象外国人は龍田丸を利用し、7月30日横浜港を出帆する。



<日本残留>


オランダの外交官にコリネリス・ウイルスム館員の名前はあるが、メンノ・ウィルスム領事の名前はない。乗船を見送っている。日本人の妻の元に残った形だ。

しかしその後は民間人のように抑留所に送られることはなく、そのまま山手239番の私邸に住み続ける。元外交官という事で一定の敬意をもって扱われ、開戦時の軟禁の状態が続いたのであろうか?

オランダ公使館員の中には他にふたり、交換船への乗船を拒否したものがいる。ロンドンのオランダ亡命政府の方針には従えないというのが理由であったが、他にも婚姻など、日本を離れがたい理由があったのかもしれない。

書記生ティセン及び通訳官フェイストの両名で、日本に残留し日本の蘭印(今のインドネシア)統治に協力したいという宣言書を出した。両名は昨年10月、新たに設置された情報部員として日本国内の情報の収集に当たっていた。

ティセンは先に「磯子に自宅で病床に臥していたフイリツプ・ティセン(36)」であるが、肺結核が再発して5月27日聖路加病院に入院している。帰国を見送ったのは健康上の理由もあろうか?書記生A.C.ティッセン(31)という名前のオランダ人は、乗客名簿にあるが兄弟か?
(外事月報 2019年9月6日追加)



<終章>

こうして横浜からアメリカ人、イギリス人らの姿が消えた。(個別事情により認められた、若干の滞在者はいたが)
敵国人外交官の扱いは、これまで見て来たように戦時下とはいえ、ある程度の秩序に則ったものであった。

その後の敵国領事館であるが、スイス公使館員ヤコブ・フリッツ・ケルンが1944年8月、山下町6番のアメリカ館に移り住む。スイスはアメリカの利益代表国であったので、アメリカ資産の保護のためであろう。一方南米諸国の領事の私邸あった山手の住所は、1943年ごろには多くの場所でドイツ人が移り住んでいる。

その後戦時下に入ると、領事として新聞等に登場するのはドイツ、イタリア、フランスの領事くらいである。彼らに関しては筆者の書いた別稿『戦時下・横浜の外国人』を参照されたい。
ドイツ領事 ヘインリッヒ・ゼールハイム こちら
イタリア領事 アルフレッド・デ・プロスペロ こちら
フランス領事 エドムヘンリ・ガロア こちら

ブログ「開国初期のアメリカ大使館の推移」では横浜領事館を含めた変遷を説明しています。こちら

主要参考文献
『外事月報 第4巻 昭和16年9月〜12月』〜同昭和17年 
『敵国公館員現在員名簿』昭和16年12月
『敵国人抑留』小宮まゆみ
(2019年8月18日)

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