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日本 藤村義一(ふじむらよしかず)  スイス和平工作の真実 (第二部) 瑞西
日瑞関係トップ藤村義一 第一部和平工作その後北村孝治郎の証言 │バッゲ公使コンタクト

<スイス公使館>

これまでも何度か引用したアメリカの手による膨大な量の外務省、海軍陸軍それぞれの解読電は、毎日重要なものが簡潔にまとめられ、解説が添えられて、上層部にコピー厳禁として回覧された。それは「マジックサマリー」と呼ばれた。
 
ドイツが敗戦を迎えた一九四五年の五月から、スイス公使館と日本外務省の間での外交交信録を、「マジックサマリー」は連日のように取り上げる。ドイツからの発信はなくなり、アメリカ側が中立国に駐在する日本人の和平への動きに、関心を持ち始めた証拠である。

まずドイツ降伏直前の五月四日、神田襄太郎チューリッヒ総領事は、ドイツの総領事ディーンストマンと話し合う。自国が崩壊間際の総領事は
「自分は日本が、まだチャンスのある間に終戦に持ち込むことを希望する。
ベルンのドイツ公使も、もしドイツの苦い経験が日本に生かされるなら、幸せであると語っている」と日本の終戦に触れた。

神田はその話を、さっそくベルンの加瀬公使に伝えた。すると加瀬は、コメントも添えずに、そのまま東京に打電した。

三谷隆信元フランス大使も立ち上がった。三谷はフランスからドイツを経由して、スイスに入国を許されたばかりであった。外交官の資格を持たない難民同様の身である。すぐにベルンを離れ、フランス語圏に位置するモントルーの田舎に引っ込むが、その直前の五月八日

「日本にとって残された道は三つある。一番目が、最後まで戦う力による解決。二番目が無条件降伏、そして最後が少しでも有利な条件を得るために交渉する道である。
日本は三番目の道を取り、すみやかにイギリスとアメリカと交渉に入り、受け入れられるような条件を獲得すべきである」と提言した。

また同じく五月八日、加瀬公使はドイツの公使ケッヒャーと話し合った。ドイツ公使もチューリッヒ領事同様「自国をいくらかでも破滅から救うために役に立てなかった」と後悔していた。そして別れに際しては、涙を流しながら

「日本の早い終戦を希望する」と締めくくった。これも東京に送られた。
なお加瀬の電報の送られた五月八日は、ドイツの崩壊した日であると同時に、藤村が文春において明解に、第一電を東京に打ったと主張する日である。

公使館から一連の和平勧告電が送られた直後の五月十二日
「加瀬公使は自身では和平を主張しないものの、そうした主旨の第三者の意見を、東京に次々と送り続けている」と、アメリカの解読グループは首脳部に報告した。

この解釈は藤村が一九四八年、高木少将に対し
「公使加瀬俊一、無能の人物。本土決戦を主張する大本営の意向に反する仕事をすることは、表面的には問題が深刻重大であるため、他の人に話させたかった」と語った内容に近い。アメリカ側の分析の鋭さを証明すると同時に、藤村はそんな「慎重な」加瀬公使に苛立っていたようだ。

五月十四日、加瀬公使もいよいよ、自分の意見として、交渉による和平を本省に訴える。
和平の方策として好ましいのは、ロシアに仲介を委ねることである」と、長文の具申電を東京に送った。後に藤村がソ連を仲介とする和平工作を警告するのは、この加瀬電に対する対抗心からかもしれない。
 
加瀬を中心としたスイス駐在外交官は、和平に向けて大きく動き出した。しかしこうした電報に対して、日本からは良いとも悪いとも何も言ってこなかった。送り側はこれを、政府の受動的肯定の印と解釈し、具申電の頻度を増してゆく。

一方藤村の名前はまだ「マジックサマリー」に登場しない。海軍武官解読電で個別にスイスからの発信電を見ていくと、スイス入りした直後の藤村は、ベルリンから南ドイツに避難し、日本との交信が出来なくなった小島武官らの動向を、本国に伝える任務に専念している。そしてドイツ降伏後の五月十四日に

「ドイツの小島武官との交信は五月五日から不能」と本国に伝えた。ようやく藤村は上官から解放され、独自に行動出来るようになったと言える。

そして同月十六日軍令部第三課にあてて、駐ドイツ武官室消滅後の情報体制についての報告を送る。

「一.ドイツの崩壊を転機として、我々は当地のドイツ空軍武官と、前ドイツの諜報網を引き継ぐ話し合いを密かに開始した。交渉は途中だが、成功する可能性は高い。
二.敵と中立国の一般情報のスパイ行為はフランスの親ロシア、反英米的人物によって行われており、今後拡大するであろう。
三.アメリカ大統領の特使であるダレスと当地のスターリンの特別代理組織がここスイスで全欧州の活動に関わっている。

我々はこうした組織内で、かれらを快く思わないスイス人もしくは外国人から、更に精度の高い政治、軍事情報を得ることが出来るであろう」と藤村はこの時期、日本の戦争継続のため、ドイツに代わる海軍諜報網をスイスに確立しようとしている様子が分かる。

後の交渉相手であるダレスの名前も登場するが、それは敵側の情報を入手する可能性のある組織としてである。そして藤村はダレスの組織内の反米英的外国人から情報を入手予定と書いている。ハックをこうした目的のために利用出来ると当初は考えていたのかもしれない。藤村がダレス機関の構成員であるハックに接触した動機は、文春の内容とは大分違うのかもしれない。
 
これは解読したアメリカにとっては、関心を呼ぶ内容ではなかったようだ。よって重要な電報のみを取りまとめた「マジックサマリー」には取り上げられない。



<藤村動く>

スイス在留邦人の和平への取り組みの中で藤村は、すでに活動を始めた外交官に対し、完全に遅れた。藤村の名前がマジックサマリーに登場するのは六月九日である。

六月五日、ベルンの海軍顧問である西原大佐は日本に、OSSのアレン.ダレス長官がスイスにおいて日本とアメリカの間で話し合いを持つこと、そしてそのために東京から極秘で提督を送るよう提案してきたと報告した。

三部構成の報告書のうち第二部のみ入手したが、内容は以下のようである」とコメントがあり、そこには西原大佐の名前が登場する。第二部は以下のようである。

「ダレスはルーズベルト大統領の特使であり、今はトルーマンに仕え、かれの政治活動はスイスを本拠に全欧州に及ぶ。
五月二十三日と二十五日、ダレスは確実なる第三者を通じて藤村中佐に極秘に提案をし、同時にかれは二通の至急電をワシントンに送った。

A.目下の所スイスは国際会議にふさわしい場所である。そこでは日本とアメリカの話し合いが同等の立場で行える。
B.スイスとロシアの間には外交関係がないので、ロシアの監視がない。よってスイスは他のどこの中立国より、日米の対話にふさわしい場所である。
ダレスは常にワシントン、特にトルーマン、ステッティニウス、グルーと緊密な関係にあり、ワシントンもかれの意見に常に重きを置いている。

C.もし日本が欲するなら、大急ぎで提督クラスもしくは”次の数語文字欠落”(おそらく”大臣クラス”であろうー筆者)を派遣せよ。アメリカはフライトその他の責任を持つ。準備は極秘のうちに進められなければならない。そして提督は二、三週間以内に到着すべきである」

この発電者は西原となっているが、文中には「ダレス側より実際の提案を受けたのは藤村中佐」と表現されている。文春の内容とも照合して、これが藤村の第一電であるといって間違いない。それはつまり六月五日のことであった。沖縄では、米軍はすでに首里地区を占領している。

はっきりと「ダレス機関が接触してきたのは五月二十三日と二十五日であった」と報告している。よって藤村は手記において、日付をちょうど一ヶ月繰り上げ、四月二十三日としたことは明白である。本橋教授の推理は正しかった。

また「ダレス機関が第三者を通じて、藤村中佐に極秘に提案をしてきた」とある。これに関しては、一九六八年に出版された「昭和史の天皇」で藤村自身、日本への第一電を打つ際

「戦争の最中に上司の命令もなく、勝手に和平交渉をするなどということは、軍律でいえば銃殺ものだ。そこでみんなで考えて話を逆にして、ダレスの方からハックを通じて和平を申し入れて来た、ということにして東京に第一電を打つことにした」と、東京に対して、事実と異なる報告をした事を認めている。ただし事実の歪曲は、これだけにはとどまらない。

続いて六月十三日、マジックサマリーは欠けていた藤村第一電の第一部と第三部を紹介する。
暗号化された原稿は、スイスの郵便局に持ち込まれ、送られた。おそらく長文ゆえに、第一電は三回に分けて、日本に送られたのであろう。興味深いのはアメリカ側の暗号解読者はこの時点ですでに

「電報の起草者が、西原自身がどうかは、全くはっきりしない」とコメントしている点である。藤村は深夜こっそりと公使館に入り、電報を作成したという。日本の暗号電の解読に関し、アメリカはまさしく行間をも読むような精度を持っていたことが分かる。
 
さて新たに解読された第一部で藤村は
「一.アメリカの指導者の間でも、海軍を除き、日本の無条件降伏を望 まなくなっている
  二.アメリカはロシアのアジアへの進出を恐れている」と報告した。

またある諜報筋の情報として
ヤルタ会議においてロシアは、ある時期に対日参戦することに同意した。それは八月下旬であろう」とも書いた。 ここでの”ある情報筋”とはハック以外に考えられない。

ヤルタ会議は、この年の二月四日から、ソ連クリミア半島のヤルタで開催された連合国の巨頭会議で、ソ連の日本参戦が、秘密協定として合意された。

ヤルタ会議での密約は戦後初めて明らかになった話で、公表された時、日本では大きな反響を巻き起こした。それを藤村は戦時中にすでに、報告していた。アメリカの指導者層は、この箇所を読んで相当肝を冷やしたはずである。しかし受け取った日本海軍には、これも重大視した形跡はない。首をかしげざるをえない、情報音痴だ。

そして秘密協定の内容が、ハックを通じてアメリカ側から意識的に漏らされたとしたら、ダレスも藤村との交渉に、何らかの期待を持っていたと解釈できるが、確認するすべはない。
 



<第一電、第三部>

続いて六月十四日、サマリーは第一電の残りの第三部を紹介する。それは「私見」と題されている。藤村の見解である。

「A.ダレスの特徴
すでに説明した大統領の信頼の高さに加え、北イタリアでのドイツ軍の降伏交渉の調整を果した。

B.今回の提案の本質
これが策略でないことは、ダレスの身元と、先に述べたワシントンへの至急便の内容から明らかである。ダレスの至急便は、第三者の意見もその場で取り入れられて、修正された。
海軍がこの任に就く理由は、アメリカの見解では帝国海軍の他に、適当な交渉相手がいないからである。

C.秘密の維持
例をあげると、北イタリアとアメリカの交渉は一月から百回にも及んだが、少しももれずに、満足の行く結果に結びついた。
日本側では西原と藤村しか、この件を関知していない。国家の存亡のかかる重大事に関するアメリカ側の見解は、すべて特別のある第三者によってのみ、仲介されている」

藤村がダレス側に渡す内容をハックと話し合った際、ハックが藤村の意見を取り入れて、一部修正に応じたという。これだけをして、アメリカが藤村との交渉に応じた、と考えたとすれば相当楽観的である。

これは文春で藤村は全く触れないものの、西原の回想録には載っている内容だ。またルガノの百回に及ぶ交渉の話とか、ソ連とスイスは国交がないので交渉に最適であるという話も同様である。

最初のハックとの会合には、西原も同席したと藤村も証言している。おそらくそれは事実で、それゆえ当事者しか知り得ない内容を、西原は回想に書く事が出来たのであろう。

他方ヤルタ会談の秘密協定の情報は、間違いなく大スクープであった。大手柄である。藤村が手記で触れない理由は、よく分からない。敗戦直後、アメリカ側に好ましくない、ダレス機関からの情報漏れの話は、意識的に避けたのであろうか?
 



<日本海軍の疑念>

文春に戻ると以下の箇所がある。
「その翌日の五月二十一日か二日に東京海軍省軍務局長から武官宛に親展で返事が来た。ところがそれによると”貴武官のダレス氏との交渉要旨はよく分かったが、どうも日本の陸海軍を離間しようとする敵側の謀略のように思える節があるから、充分に注意されたい”というのである」

これを見て藤村は怒りを覚える。そして東京に対し猛烈なる説得工作を開始した。文春では「  第一電に引き続き、五月十日、十三日、十四日、十六日、十八日、二十日と計七電を打った」となっている。しかし日付けを別にしても立て続けに説得を試みる電報は、海軍武官解読電には見つからない。
 
そして和平交渉が再び登場するのは、七月六日付けの一四一号電である。これも長文であるが藤村の当時の真意を良く表しているので,主な部分を引用する。

「一四一号 副大臣 次長宛て 
貴電三七号 米国の提案を謀略とする可能性について
 
貴電にあるこの提案には謀略の恐れがあるという不信感はある意味もっともな事である。我々も非常に用心している。すでに東京でもご存知のように、周囲を敵に囲まれたこの中立国では、常にこの種の仲介者がいて敵との仲介を申し出ている。もしくは実際に行われている。(略)
 
相手は五月二十日頃、つまり我々に提案をする前に,当地の事情を本国に送った。(スイス一二一,二号電参照) 
 
そして和平問題についてスイスの日本海軍代表と接触することを具申した。我々は間接的に五月二十五日頃その接触を受けたが,相手は六月十日頃ワシントンから“原則同意”の承諾を得た。(彼の細かい指示を仰ぐ要求に対して、明快な回答があったようだ)
 
それから相手は二度にわたって我々に
“東京から返事はきたか?こちらは準備が出来た”と聞いてきたが、東京の指令に従い返事はしていない。
 
続いて、ダレスは六月十五日から二十五日まで大統領の求めでワシントンに戻り、調整をおそらく行った。彼は二十六日に戻り、我々に会ったとき相手は熱心に語った。かれは率直にロシアの増大する危険性を語り,早期の終戦を望んだ。
 
謀略の形跡は全く無い。沖縄戦の記憶が新しい敵は対日長期戦の準備に入った。他方,激しい継続的空襲がドイツの場合同様決定的要素となるであろう。沖縄の占領後、敵は自信を深めた。他方アメリカは極東でのロシアとの関係を改善し対日戦を終結したい。アメリカは依然ロシアに懐疑的だが,日本本土上陸の犠牲を考慮してこの結論に達した。 
 
ダレスとその部下は北イタリアでの降伏交渉で自信を深め、対日戦早期終結に貢献したいと考えている。これは我々が利用するべきである。さらに貴電にある公使館等との連携であるが、勿論過去から行われている。しかし今回の提案だけは,上記理由からして謀略と言うにはあまりに希望があり、率直で,真摯なものである。さらに将来情勢の機微なことを深く考慮して,海軍中央の考えを聞きたく直接まず報告するのである。
 
相手は目下の戦況を目に据え、我々の頑迷な沈黙に驚いている様子である。勿論敵の謀略であると言う兆候は無い。この点に関しては彼らと接している我々がそれを感じない。しかしもし謀略の気配があったら、当地の公使館に連絡する。これが我々の意見で、現状の分析は東京とは異なる。貴方の再考をお願いする。もし東京がこれが敵の謀略であると言う情報があるなら,折り返し連絡されたし」    
 
感情的な電報である。内容にあるように、押しの強さはハックのにらんだ通りだった。また解読された電報の欄外には
「G1コメント DULLESは全体を通してDULLASとなっている」と珍しく書きこみがある。スペルの間違いを指摘しているが、幾本もの藤村電に接したアメリカの上層部の感想が聞けないのは残念だ。
 
また本国からの六月二十日の訓電は現存しないが「現地の公使館、陸軍武官とも相談するように」と指示があったようだ。しかし藤村はこれに従わない。

「敵の謀略と思われるような、こうした性格の話について、われわれは絶えず当地公使、陸軍武官と接触し、間違えのないよう努めてきました。しかしまったく敵の謀略の可能性が考えられない今回だけは例外です。
将来に対する機微を考え、われわれはまず直接海軍に訴えるのです」と同電の中で語っている。
 
藤村があげる公使館と話し合わない理由が真実なのか?それともこれまで見てきたように加瀬公使とは意見が合わなかったからか?もしくは本人の功名心からかは想像するしかない。 
 



<藤村のねばり>

七月十四日藤村は「ダレスは最近ベルンを離れドイツに向かったが、西原が望めばいつでも接触できるようになっている」と報告する。
十六日には

「仲介者(ハック)は、ダレスの私的秘書で、一九四〇年からの親友であるドイツ系アメリカ人フォン.ゲベルニッツと話しあった。
ハックによれば、ダレスは六月にトルーマン大統領の要請でワシントンに帰ったときに、(かれとこの件に関して)話し合ったはずである。

ゲベルニッツの知る範囲では、降伏は表面上無条件だが、内実は和らいだ条件のものになろう。そしてダレスは日本からの要請があれば、いつでもスイスに戻る」と報告した。

初めてハック以外で、ダレス機関に所属する人物の名前が初めて登場するが、それはまさに終戦間際のことであった。ではこれまでハックは誰と話をしてきたのかと新たな疑問が湧き起こる。また同氏の登場は、文春では四月末となっており、大きくずれている。

七月十七日、また電報が送られる。藤村が、猛烈に東京に電報を送り続けたというのはこの頃、つまり七月中旬のことであろう。藤村は確かに何度か、長文の具申電を書き送っている。この熱意、真摯な態度は賞賛されてしかるべきものである。そしてそこでは

「ハックを介していて直接相手と交渉していないので、会話の雰囲気はわからないが」と断わった上で、

「A.目下の所アメリカは、ロシアとの協調を有意義に思っている。
B.事態がこのまま進めば、日本は今のドイツのように徹底的に破壊され、食糧難から人口は半分になろう。

C.アメリカの軍人や、ビジネスマンは対日戦に絶対の自信を持っている。ダレスは北イタリアでの実績を持つ人間である。したがって日本とアメリカの間で、早急に平和に導くようなパイプを作ることが望ましい。
勿論これは謀略ではない。アメリカ側が政府に送った、非公式の接触の要求からもそれは明らかである。

D.こうした状況を認識したダレスは北イタリアの実績がある。可能ならば和平を早めるために、日米の連絡路を設立するのが彼の希望である。 提案がアメリカの謀略であると言う情報は無い。相手の政府に許可を求めた電報から判断して、むしろこれは(ダレス?ー筆者)個人のイニシアチブで始まったものと考える。

二 結論として現下の連絡路を断ち切らない事は,戦況がどう変わろうとも日本にとって絶対に必要である。貴官の意見を窺いたい。ひとつの考えは日本にいるアメリカ人捕虜の情報を提供する事で、敵はその見返りにフィリピンで捕らえられた、日本軍指導者の情報を出すであろう。こうして日本の政策軍事作戦などに影響を与えない限りにおいて、秘密の連絡を保つのである

日本のデリケートな事情も分かる。しかし私はこの件に関して何かをやりたい。それは飽くまでも東京の指示があっての話です。どうかただちに返事を下さい」と書いた。

ダレスの話が謀略でないことを、終始藤村は訴えるが、その根拠は以前と同じである。そして今回,和平交渉と言うよりはダレスとの連絡路の開設に自分の要求を微妙に変えている事が分かる。
 
最後は自分がこの件で何か役立ちたいと、東京の許可を哀願する調子を帯びている。これが藤村の本音かもしれない。

電報の前半でははっきりと「ハックを介してのみ、ダレス機関と接触している」と述べている。戦後にダレスと直接会談をしたのいうのは、創作であることは明らかだ。

十八日から十九日にかけては三本の電報で,ポツダム会議の見通しを報告するが、ダレスの名前は出てこない。
 



<笠の和平勧告>

次いで二十日、藤村は朝日の特派員でベルンに駐在する笠信太郎の意見を送る。笠については藤村は文春でも

「スイスにはすでに朝日新聞の笠信太郎氏(元論説委員)が早くから来ていて、日米和平に活躍していた」と紹介している。

「一七○号 スイス武官発次官,次長宛て 
以下は朝日新聞特派員笠信太郎の時局分析である。分析は的確なので、我々は我々の交信に入れる事にした。海軍で参考にした後、内閣顧問の緒方氏に渡してください。

Aモスクワの十九日の国内放送は“ポツダム会議で日本問題が話し合われ、対日戦勝利の方法が決定された”と伝えた。モスクワの態度はニューヨークのヘラルドトリビューンに絶えず登場するアメリカの対日条件と対照的である。(中略)
  
アメリカの権威筋は最近“日本からの和平の提案は無い”と語ったが,ドイツ降伏時には見られなかった現象だ。アメリカの世論が平和を求めている証拠である。同時にアメリカの権威も同様に、毎日日本の提案を待っていると解釈できる。
 
こうした状況に照らしてみると、もし我々が直ちに和平の提案をすれば,アメリカは比較的好意的条件で直ちに受け入れると言う印象を与える。しかしながらポツダム会談が最後の黄金の機会である」
 
藤村が東京を説得するため、識者である笠を引っ張り出したといえる。藤村はこの日米の交渉と言う晴れ舞台に、登場したくてたまらなかったのかもしれない。しかしこれらの電報は効果がなかった。七月二十二日、海軍は次の様に西原に返電した。

「この件は外務省に移管した。かれらから貴地公使館と接触するので、海軍は今後、少なくとも表向きは一切関与しない。

目下日本は全力を挙げて、戦争の継続に努めている。最近の敵プロパガンダの性格から判断して、敵が困難に直面していることが窺われる。海外の海軍出先は慎重に行動し、軽率な行動は慎むように」と紋きり文章で、藤村を落胆させるに十分な、内容であった。

これを取り上げたマジックサマリーの脚注には
「加瀬公使自身も外務省に対し、前国際決済銀行のパー.ヤコブセン博士と北村孝治郎同行理事の、和平を探る話し合いについて報告している。

ハンブルク時代の北村孝治郎 「杉本勇蔵の体験した戦前、戦中のハンブルク」より

加瀬の説明ではヤコブセンは、二回ダレスと話し合ったという。この話し合いが西原の活動と関係がある、という証拠はない」と東京ですら、スイスから二つの和平の話が入り込んで混乱したものの、アメリカ側は冷静に理解していた。

実はこの時スイスでは、陸軍の岡本清福陸軍武官を中心とする和平の動きが、平行して進んでいた。相手は同じダレス機関であった。ロシアの仲介を当初は主張した加瀬公使は、岡本ー北村ーヤコブセンルートを影で援助していた。

海軍も陸軍も、スイス公使館内に事務所を開設していた。加瀬は藤村とも毎日顔を合わせていたにもかかわらず、藤村らの動きは全く知らない。東京から、自分の公使館内藤村の工作を聞いた加瀬が、これを真剣に取り上げなかったのは、後に紹介する外務省への報告電に、見る通りである。
 



<命令受領> 

東京からの返電を受けて藤村は
「ああ、我ら一同は東京に人なきを痛感した。(中略)それにしても海軍大臣より正式に外務大臣に廻り外交交渉となる事を喜んだ」
と無念さを書いている。文春手記の一つのクライマックスを形成しているが、七月二十六日日電一七五号によれば事実はこうだ。

「二十二日の貴電の拝領。
一.私は帝国の政策と、海軍の視点を十分に理解しております。私はこれまで不注意な行動をとったことはないし、将来もないでしょう
二.私は戦争の推移に関係なく、敵との間接的連絡を保つことは意義深いと考えます。この連絡路を通じ、捕虜の問題など話し合うことができます。

三.東京が必要とするなら、ただちにアメリカと連絡をとる道は、今後もわれわれには開かれています」

と自分の見つけたルートに未練を残しつつも、海軍の指令に恭順を示す電報を打っている。意外に冷静な反応であった。そしてスイスにおける海軍の和平工作は終了する。

この電報の日付も、藤村は一ヶ月繰り上げている。すでに日本の終戦は、秒読みに入っていた。

七月二十六日、米英中首脳によりポツダム宣言が出される。日本はその受諾に向け、動き出した。日本でも終戦が決定的となった。もう藤村の出番は来なかった。
 



<OSS文書>

マジックサマリーとは別の、アメリカ側の公文書によっても、藤村証言の検証が可能である。アメリカ側の藤村の提案に対する、捉え方もそこからはある程度見ることが出来る。スイスのOSSとワシントンの国務省との間の交信録は、やはり一九七十年代後半になって、閲覧が可能になった。その一つである

「合衆国外交関係文書集  一九四五年」を見ると、OSS長官代理G.エドワード.バックスタインが六月四日、国務長官に宛てた報告に藤村が、最初に登場する。藤村が第一電を送る一日前である。

「この情報の源も、前と同じ反ナチ親日の極東通ドイツ人であります。情報源は藤村に接触しています。藤村は在欧日本海軍の代表の一人で、前ベルリン軍武官補佐官でありました。藤村は日本海軍大臣と、直接且秘密の通信連絡をもつと伝えられ、また日本政府の信頼を得ていると信じられます。 

藤村は、情報源に対し、日本政府を今やコントロール(?)している海軍部内の一派は、共産主義と混乱を防ぐため、天皇を保持する必要を特に強調していると言います。

藤村は日本が基本的な必要食料を自給できず、砂糖と米とを朝鮮に依存している、と強く主張しています。彼はまた、必要食糧輸入のため、商船隊の保持を日本が必要としていると主張しています」

ハックは、藤村ルートを有望と強調したようだ。それが「日本海軍大臣と、直接且秘密の通信連絡を持つ」という表現になった

ハックを通じての藤村の提案は、こうしてアメリカの中央に届いた。ダレスとしては報告する事で、間接的であれ藤村側と接触をする(言い分を聞く)承認を得た。これが藤村の日本に報告した「ダレスは政府の承認を得た。日本からの返事はまだか?」という根拠であった。

ここでは天皇制の保持等の日本の降伏に対する条件ないしは希望を、藤村がすでにアメリカ側に提示したこともわかる。日本と事前に協議した跡はない。

そして自分が独断で和平の条件を持ち出した後も、いっさい日本に報告しなかった。ひたすらスイスで交渉に入ることの有利を訴えた。独断先行と断罪されてもしょうがない。

藤村は戦後「ダレス機関からではなく実際は自分の方からダレスに接触した」と手記の内容を訂正した。これは事実であろうか?
OSS電には「情報源は藤村に接触しています」とある。この文面通り、ハックがまず動いて藤村に接触したというのが本当ではなかろうか?

藤村の登場よりひと月ほど前の五月十二日、OSSから国務長官にあて
「同情報源(ハックー筆者)は五月十一日、スイス駐在日本公使加瀬俊一と語りました。かれは、加瀬が日本人と連合国との敵対の停止につき、橋渡しを希望したと報告しています。伝えられるところによると、加瀬はソヴィエト国を通ずる交渉よりも、アメリカ人とイギリス人との直接対話の方が、望ましいと考えているといいます。、、、」と送っている。

ハックは祖国ドイツの崩壊後、藤村ではなく、まず加瀬に接触した。そして勇気ある和平を日本公使に勧めた。しかし加瀬は態度が煮え切らない。こうした公使の態度はすでに見てきたが、当時の朝日の駐在員であった笠信太郎も「もどかしさを覚えた」と回想している。外交官としての限界であろうか?

そこで約一ヶ月後、ハックは対象を藤村に代えて接触し始める。藤村は加瀬と違って、行動的であったのはすでに見てきた通りだ。

このようにスイスでの海軍による和平の動きは、藤村でもダレスでもなく、日本に恩を感じるハックのイニシアチブによるものであったと考えるべきであろう。

さらにはハックが「アメリカ側も交渉に乗り気である」とか「日本から大臣級を派遣させろ」いう話を持ち出し、藤村をその気にさせたのかもしれない。
 



<OSS電からの推察>

マジック電によれば、藤村は第一電ですでに、ダレス側から提案の提督クラスの派遣に触れている。しかし、この話は米国側の公文書には出てこない。常識的に考えても、勝利間近のアメリカが、そのような事を申し出るとは考えにくい。藤村は東京を説得するため、自ら創作しもしくはハックの助言を受け、打電した可能性が強い。

藤村は別の箇所で「ダレスは影響力が強く、必要とあれば、アメリカ軍は協力を惜しまない」と評価している。
「おそらくそんなダレスなら、日本からの要人の輸送に飛行機を手配することは容易である」と解釈し、先の提案を行ったものと思われる。この様に当時藤村は、かなり自分に都合よく事態を理解していた。

そして飛行機による提督派遣の話であるが、藤村は、文春以降は全く出さなくなる。本人が、荒唐無稽という印象を与えると判断したからであろうか?

またOSS電は
「ダレス氏は、かれが絶えず接触しているスイス国に住むドイツ極東通から以下のように知らされました。 ベルン在住海軍代表藤村義一は過去二ヶ月間に即刻の敵対停止を訴える七通の長い電報を東京の彼の上司に送りました」と国務省に報告している。

痛恨ダレス電は藤村が書くように三十三、五通ではなく、計七通であることしている。これはこれまで見てきたマジックサマリーの本数とも、ほぼ一致する所である。藤村は確かにその間東京に、和平勧告電だけではなく全てをあわせると三十本くらいの電報を送っている。その数を語ったのかもしれない。
 
さらにOSS電は
「ダレス氏は、彼が絶えず接触しているスイスに住むドイツ極東通から、以下のように知らされました。(中略)藤村の上長は、日本海軍がもはや”単独に行動する”ことが出来ないことを返電してきて、藤村に対し
”東京からの命令なしにイニシャティヴをとってはならないが”最も価値ある接触”を維持するよう訓令しました」と七月二十二日付けの海軍大臣の電報を受けた後の、反応を書いている。

藤村は万事休すと、ほぼ訓令どおりに工作から手を引いた事が確認できる。ただし後半の「価値ある接触は続ける」というところは、マジック電で見た
「私は戦争の推移に関係なく、敵との間接的連絡を保つことは意義深いと考えます。この連絡路を通じ、捕虜の問題など話し合うことができます。」に相当しよう。これは東京から認められてはいない。
 



<ダレスの反応>

文春の末尾に藤村は書いている。
「話は余談になるかも知れぬが、後で機関関係者の非公式の話を綜合したところによると、当時は沖縄作戦の最中であり、アメリカとしても早急に血闘を中止せしむべく、即時停戦の協定が成立すれば、先に呈示した三条件も考慮された、、、」

アメリカ側も真剣に考えていたとする藤村であるが、もう一方の当事者であるダレスは、実際どのように考えていたのであろうか?読売新聞社は今から三十年ほど前、質問書をダレスに送って、返事をもらった。

「一九四五年に私が関係していた、対日和平工作の内容に関する質問書を同封した、あなたの丁重なお手紙をいただきました。

あなたの質問に全部お答えするには、私としても多重に資料を調べたりしなければなりませんが、他のさしせまっている仕事のため、そのことに時間をさくことができるかどうか疑問です。

最近、アメリカやイギリス、ドイツ、その他の国で出版された、そして日本語版も出版されるはずの私の本”ザ.シークレット.サレンダー”(秘密の降伏)の一番最後の章に、それらの和平工作について、簡単に触れているので、まずそれをご参照下さい」

ダレスの指摘する部分を見ると
「われわれがサンライズ作戦にとりかかっている間にも、この作戦についての噂が、スイスの日本代表部に達していた。一九四五年四月、沖縄の戦闘が絶頂に達していた時、ゲヴェールニッツ(ドイツ生まれのアメリカ人でダレスの部下)と私は、スイスの陸海軍代表、およびバーゼルの国際決済銀行の日本人から接触をうけた。

かれらは至急に和平を確立するために、サンライズ作戦のために確立されたワシントンとの秘密の連絡を、使用できるか打診してきたのであった。(サンライズ作戦とは、ルガノで行われた北イタリアのドイツ軍降伏交渉のこと。ー筆者)

私はワシントンに報告し、日本の言い分を聞く権限を与えられた。バーゼル銀行の有能なスウェーデン経済顧問ベル.ヤコブセンもこの話に加わり、ワシントンとベルンの間で活発な意見の交換がなされた。

一九四五年七月二十日、ワシントンからの指令のもとに、私はポツダム会議に出席し、そこで、私が東京との交渉で知り得たこと(日本は皇室を持続でき、日本国民に降伏のニュースが流された後、日本に規律と秩序を維持するために、基本的団体が維持できるならば降伏したいということ)をスチムソン陸軍長官に報告した。

このころには、イタリアの降伏のニュースと、それがどのようにもたらされたか、という話が広くジャーナリズムによって広められていた。その効果は伝染病のように広がった。不幸にして日本の場合は、われわれの方に時間がなくなっていた」

ダレスは終止素っ気無い書き方で、藤村に会ったどころか、名前すら出てこない。よってハックによる接触に対するダレスの反応を見ることは出来ない。

文中スエーデン人ベル.ヤコブセンと話し合う記述があるが、かれは藤村の代理ではなく、陸軍岡本中将の代理である。ダレスは陸軍の動きとも、混同している。

日付けに関して言えば藤村らの接触の時期は、五月でなく、沖縄戦の頂点の四月としている。ダレスは全体として荒っぽい書き方しかしていないが、これに藤村があわせた可能性はある。

ダレスはこの中で「日本側の言い分を聞く権限」を与えられていたと説明している。交渉のテーブルについたわけではない。交戦中の相手国人の話を聞くことを許されただけであった。これが藤村らスイス邦人の接触に対する、ダレスの基本的立場であった。藤村は常に自分に都合のよい、解釈をしていた。
 



<海軍の反応>

スイスから和平の勧告電を受け取った、日本の海軍関係者の反応はどうだったのであろうか?

保科善四郎海軍省軍務局長は一九五〇年一月十六日、GHQに対して陳述を行う。藤村へのインタビューより、九ヶ月前である。     
藤村は文春の中で

「その翌日の五月二十一日か二日に東京海軍省軍務局長から武官宛に親展で返事が来た。ところがそれによると“貴武官のダレス氏との交渉要旨はよく分かったが、どうも日本の陸海軍を離間しようとする敵側の謀略のように思える節があるから、充分に注意されたい”というのである」と書いているが、それは保科のことを指している。証言は以下のようだ。

「それは私が海軍省軍務局長に就任してから間もなくの頃であった。恐らく一九四五年六月初めの頃であったろう。軍務局第二課長末沢慶政大佐と同課員有馬高泰大佐とが、いかにも嬉しそうな面持で、一通の電報を私に届けに来た。

私はこの電報を米内海相に持って行って御目にかけたが、海相も嬉しそうであった。暫くして軍令部次長の大西滝治郎中将から、これは米国が、日本の陸軍と海軍とを離反するために、謀略として藤村に申し入れてきたものであると思われるから、これに応ずる事は反対であるとの意見が出た。

当時は尚、終戦を希望するような事を強硬に主張する事は、遠慮しなければならない状勢であった。それで大西の主張が勝ちを占めた。(中略)軍務局長の所見として、東郷外務大臣に移し外務大臣において、適当に処理して貰う事に致しました」

藤村の第一電の時期に関しては、六月上旬と正しく記憶している。しかし「米内海相も嬉しそうであった」となっているのは、疑問が残る。
また回想録として後に出版された同氏の「大東亜戦争秘史」には

「六月二十五日に海軍大臣室から回覧されてきて、私が受け取った電報の日付や内容について、藤村氏と私の話し合いによって、記憶に相当な食い違いはあるが、やはり私は私の”保科メモ”を固執せざるをえない結論に落ち着いた。」とある。日付けについて藤村との相違を認め正そうとしたが、藤村のほうがそれを避けたようだ。

次いで富岡定俊軍令部第一部長である。日時は同年二月十日、
「一九四五年五月から同六月にかけて、在瑞西日本大使館付海軍武官海軍中佐藤村義一氏から、米国代表ダレス氏と太平洋戦争の終戦について、交渉が合ったことを知っていますか?」と大井篤から、質問を受けた。それに対し富岡は知っていると答えた上で

「交渉を進める事を、上司に進言する決心をした。ところが私の直接の上司である軍令部次長大西滝治郎中将は、当時既に継戦一本槍の意気込甚だ強い事を、私は知っていた。
私から直接総長(豊田副武ー筆者)に進言しよう。総長は次の様に申された。

”君らは専ら作戦に心血を注いで居れば宜しい。和平の問題は、君が考えるべきではない”それ以来この問題には、一切干与しない事にした」と、好意的に藤村電を捉えたが、総長の一言は影響が大きかった。

部下の進言を却下したとされる軍令部総長豊田副武は戦後、自著「最後の帝国海軍」のなかで次のように説明している。一九五〇年の発行である。
「スイスから来たそれについての電報の内容は、はっきり記憶していないが、結局海軍省も軍令部もそんなものは危険だ。第一言って来ているのが中佐で、こんな大問題を中佐ぐらいに言ってくるのはおかしい、というわけで真剣にとりあげる者はいなかった。

当時それに対して海軍が下していた観測は、概ね次の如きものであった。
第一、米国は日本海軍が開戦前から、この戦争に賛成していなかったということを承知している。日本では、軍部が国策遂行の全権を握っているので、日本をして戦争継続を断念させるには、軍部の一画である日本海軍を切りくずさなければならない、と考えたにちがいない。

第二、米代表ダレス氏の提案は、日本海軍が一歩踏み出すだけの関心をそそるような具体的な内容を持っていない。(単なる抽象的な言辞のみで、内容とか条件というものはなかった)

第三、ダレス氏はドイツの終戦について非常に活躍した人だそうであるが、ドイツの終戦の模様というものは当時我々の知る限りに置いては、日本の模範とするような何物もなかった。同じ手に乗って日本もうまく行くとは考えられなかった。

結論として、この進言は日本の戦意を打診するバロン.デッセエ(観測気球)か、ないしは戦意破壊の謀略以外には、解せられない
と小島武官同様、全く否定的であった。

アメリカ側が飛行機を派遣すると言う話は、日本では誰もが耳を疑った。藤村が事実と違う内容の電報を打ったことが少なからず、影響したようだ。

最後は、海軍の良識派といわれた海軍省教育局長高木惣吉少将である。次の文章は、一九六九年に書かれたものである。

「私の見聞した藤村電には、米国が対日戦に英.ソの参戦を望まないこと、対日戦が七月下旬までに終らなければ、ソ連が対日戦争に参戦することを示唆し、ルーズベルト大統領が同意したこと、米軍部は大規模の空襲、工業、輸送、都市の破壊後、本土上陸、無条件降伏をねらっており、その時期は七、八月と判断されること、ダレス特使は五月二十三日、二十五日の二回申し入れてきたこと、海軍将官級をスイスに送る意図があれば、飛行機は先方で準備する等の要旨であった」

藤村とダレス機関との会談の日付を正確に再現した。スイスからの電報に接し、メモを残した証左である。同時に自分の態度として
「六月十四日に(海軍ー筆者)大臣に面接したときは”スイス電が本物ならば、私をスイスに派遣していただきたい。本土上陸だけでも食い止められる気がする”と、一生ただ一度の自薦を申し出たが取上げられなかった」と書いている。高木も戦後は自身を美化したのではなかろうか?

軍令部次長藤大西は、特攻の父と呼ばれる海軍の中では最強硬派で、藤村電については真っ向から否定した人物である。敗戦と共に覚悟の自殺を遂げる。よって手記等は残されていないが、当時のコメントが高松宮日記の中にある。七月二十六日

「(大西)次長より、和平の噂しきりに始まり,これでは”特攻”も行かなくなるし、暗殺も始まるであろう等の所見あり」と迷惑そうに書いている。ここでの和平の噂とは、藤村電も含んでいようか?

当時の電報をひとつ紹介する。それは八月十四日、海軍次官、軍令部次長の連名で海外武官に向けて
「確かに外交交渉は始まった。しか海軍軍は、国体の護持が保たれないならば、いかに厳しい結末になろうとも、戦いを継続するであろう」と送っている。これは陸軍と協調したものであったが、終戦前日に海軍中央が打ったものであると言う事実は残る。



<高木惣吉関係文書>

先にも紹介した高木少将は一九四四年九月、米内海相から「極秘のうちに戦争の後始末の研究をするよう」命じられた異色の経歴を持つ。かれは終戦でも、関係する文書を焼却しなかった。それが今日「高木惣吉関係文書」として公開されている。

藤村についての記録も含まれている。同文書は終戦関係の研究者の間では知られており、幾度と引用されているが、スイスの和平工作に関連して用いられた事はない。
 
これまで紹介してきた日本側当事者のコメントは、いずれも戦後になってのものであった。しかし以下の高木の注釈は、まさに藤村の電報が到着した当時に、書かれたものである。

一九四五年五月十二日に「在スイス武官からの報告」として
「在瑞西アメリカ陸武レー中将が、親友に洩らすところ
一.武官庁官憲は九日頃、日本はソ連を通じ、アメリカ、イギリスとの和平工作開始せるものと信じあり

二.レー中将が個人的に承知しあるかぎりにては、日本人に対する戦争責任者名簿は臣下に限定されありと。又欧州における戦争責任者総計は二千人程度にして、各責任者は被害国家に引き渡さるべしと。
当地には米大統領特別使節たる”ダラー”が活動しつつあり」と書き記されている。

木の書き記した内容の電報は、アメリカの解読電には無い。漏れているものがあることを証明すると同時に、藤村の活動について多くのことを明らかにしてくれる。

スイス武官はいうまでも無く藤村を指している。高木が五月十二日と書いていることは、当時の電報事情からすると八日頃の発電は大いにありうる。

つまり「ダラー」ことダレスの活動を初めて報告したこの電報を、戦後藤村は第一電の日としたのではなかろうか?第一電の日付は、早ければ早いほど、藤村の先見性を際立たせることになるからだ。しかし言うまでもなく、これは単なる情報であり、和平勧告ではない。

同時に日本がソ連を介して和平をするという、スイス国内での噂が紹介されている。先にも紹介したように同国ではすでに、この話が広まっていた。欧米のマスコミもそうした予想を書き、藤村の眼にも止っていた。
よって冒頭本橋教授の「藤村電報の日にちは繰り上がっている」という仮定は正しかったものの、知るはずがない事実であるという根拠は、的を外れていた。スイスでは既成事実に近かった。
 

そして藤村の和平勧告第一電は、これまで日本には存在しないとされてきた。それ故に今日まで藤村らの回想が、そのまま受け入れられたのだ。筆者はこれを長年捜し求めて来た。ところが当時電報に目を通した高木が、内容を記録に残していた。確かに原文ではない。しかし出会ったときは手前味噌ながら、まさに意志のあるところに道があるという印象であった。以下の文面を読んで、例のマジック電に戻ると、彼等の暗号解読レベルの高さを再認識させる事にもなる。

在瑞西武官電報要旨  二十ー六ー七(二十年六月七日
桑港会談失敗

一.トルーマン、ステチニアスの人気下がる。米は表面、無条件降伏を叫びつつも、内心は速やかに対日戦終了を焦る
二.米は対日戦に英の協力を好まず。又蘇の参戦を好まず。漁夫の利を与えることとなる。東亜の赤化を誘発助長す。
ヤルタ会談にて対日戦が七月下旬迄終了せざるときは蘇は対日行動開始を提案。ルーズベルトは対ソ協調政策上同意
三.欧州は共産主義扶植温床化し、蘇の赤化工作進展す。(以下略)

そして海軍の責任者であった、米内光政海軍大臣の藤村電に対する反応も、大きな謎として筆者に残っていた。間接的なものばかりである。
幾人かの話を綜合すると、米内は和平を考えていたが、それは自分らの仕事であり、部下のやる事ではないと考えていたようだ。

そこからも保科軍務局長が述べる「私はこの電報を米内海相に持って行って御目にかけたが、海相も嬉しそうであった」というのは疑わしい。米内は、藤村の電報に対しても同様の反応を示し、一件を部下から取り上げ、外務省に回しているのである。

ところが高木は藤村電の内容を記録した末尾に「米内大臣の考え」として
一.黙殺、
二.謀略的申し入れの疑いあり、
三.かれに対するワシントンの返事を待って様子を見ても遅くなし

と短いながらも書き残している。確かに藤村の進言は米内海軍大臣の耳にも届き、感想も発せられたのだ。しかし文面にあるように頼りの大臣の反応は他の幹部同様かなり懐疑的、そして及び腰であった。



<日本の対応>

スイスからの熱心な働きかけに対し、日本からは
「六月二十二日にいたり、大臣の名において武官宛軍機親展電報として”貴趣旨はよく分った。一件書類は外務大臣の方へ廻したから、貴官は所在の公使その他と緊密に提携し善処されたし」
と電報が入り、藤村を大いに落胆させる。(文春より)

藤村工作が、いよいよ最終段階に入ってからの経緯は、例外的に日本の外交史料館に残されたいくつかの電文からも、正確に捉えることが出来る。和平関係の文書は連合国が進駐してくる前に焼却する必要ない、と判断したからであろう。

海軍省から話が回ってきた直後、七月二十三日の東郷外相発加瀬駐スイス公使宛電は

「一.最近貴地海軍武官より”ルーズベルト”の在欧州特使Dullesなる者より、確実なる第三者を介して、同武官に対し”日本側に於いて米国と絶対秘密裡に話し合うの意向あらば華府政府に伝達すべく、東京より海軍高官を瑞西に派遣の意向あらば、飛行機その他の準備を引き受ける旨申出たる趣を以って措置振を請訓越せる処、海軍中央に於いては当方と連絡の上

”敵の謀略及離間工作頻りに行われ且、主目標を帝国海軍に置きあるやに認めらるるに鑑み、中央としては本件は取上げざる意向なるが、この種工作に対しては所在帝国官憲と密接連絡し周到に観察すべし”との趣旨の回訓を発せると共に、本件処理を外務省に一任し来れり。

二.ついては委細貴地海軍武官より御聴取相成度(海軍側より更めて同武官に訓電を発すべし)(中略)

本件相手方を通じ米国当局の和平問題に関する真意を探り得るや、に関する貴見等至急御回電相成度」と終戦間際にもかかわらず、長文の訓電となっている。

しかし当時の慌てた状況を反映してか、記述があまり正確ではない。冒頭貴地海軍武官よりと書いてあり、正式な海軍顧問という称号が使われていない。

アメリカ側が電報の発信人が「西原本人かどうか不明」と判断していたのに対し、外務省ではスイスから海軍大臣に宛てた電文の内容を、吟味した跡もない。発信人の西原が送ったものと考えている。

そして古びたこの電報のオリジナル原稿をよく見ると、欄外に手書きで「発電前海軍見せ」「海軍より先ず藤村武官に対し有島大佐より発電済みなる由電話あり」と書き込まれている。海軍の発電を確認した後、これが送られたことが分かる。七月二十三日のことで、海軍のは一日前の二十二日であった

また文末に「本件相手方を通じ米国当局の和平問題に関する真意を探り得るや」と外務省は、このルートを通じて、いくらかでもアメリカの和平に関する真意を探ろうとした未練が感じられる。

七月三十一日、それを受けた加瀬公使は返電を打つ。終戦近くなると通信事情の悪さで、スイスと東京の間では到着まで五、六日かかるようになっていた。であるから実際は、スイスからは折返し返事が送られたといえる。

「本件海軍武官及補佐官より聴取せるが(当地には正式に海軍武官なく当館海軍顧問なるが、藤村補佐官著任後、同人の性格上並びに西原武官が技術官なる関係より、種々問題を惹起し居れり)”イニシアチブ”が米国側より申しでたるものとは見とめ難きに付、黙殺せらること然るべしと存す。

尚”ダラス”の人物に付いては往電第七九九号にて御承知の通り、又確実なる第三者とは予ねて防共協定当時日独の間に連絡係たりし独人”ハック”にして従来当地に於いて海軍側の使用し居りたる経緯あり、本件は同人が”ダラス”の秘書と友人なる関係を利用せるものと認めらる」

海軍武官とは西原のことであり、補佐官が藤村のことを指している。藤村のスイス入り以来、海軍関係者の間では、関係がぎくしゃくしだした。加瀬公使はその原因として、藤村の性格に言及している。実際藤村はスイス入りしてから、武官として振舞っていたようだ。七月十七日に藤村は東京に宛てて

「一六四号 貴電三七七号 軍務局長宛て アルミ溶接の製造件の購入の合意の後、主に西原大佐を実際の製造の訓練や技術的問題に当たらせている。もし何か調査を希望するのであれば、事前に自分に連絡を」と西原を自分の部下とするような報告をしている。(解読電)

手柄を一人占めにしたがる性格といわれる藤村と、元々技術者である西原の角逐は想像できる。戦後になって、同期の角田求士が「藤村君と私」と題し
「藤村に和平工作失敗の遠因は、君の性格にもあるのではないかと話した。藤村君もその点は、気付いていたようである」と書いている。

しかし日本への発電権は、上官である西原が握っている。そこで西原の名前を使って、こっそりと発信したのも、藤村らしい解決策であった。よって日本への和平の電報は、一部を除き西原は目を通していないはずである。

さて事情を聞く加瀬公使に向かって、藤村は本当の事を言わなかった。「提案がダレスの方から来た」と聞くと、公使は気分を害した。それが東京に対する、黙殺すべしという先の報告となった。

付けをさかのぼると、七月二十一日の加瀬公使の親展電報も外交資料館に残っている。内容は同じくスイスの岡本清福陸軍武官による和平工作の報告であった。陸軍武官も個人として動いていた。加瀬公使は岡本ルートに関しては、海軍のとは対照的に

「現下慥かに一のよき筋と認められる」と高く評価した。職業外交官の眼には、陸軍ルートの方が、信頼がおけると映った。単純に、事前に相談を受けたという理由から、支持をしたのかもしれない。
わずかばかりの邦人の滞在するスイスでは、二つのルートが終戦直前に、あたかも先を競うように和平の道を探っていた。

八月十日、ベルンの公使館に、ポツダム宣言の受け入れを伝える日本からの訓令が届く。加瀬公使はその日のうちに、スイスの外務省を訪問し、日本の降伏の意思を連合国に伝えるよう依頼した。

それにもかかわらず藤村は、まだダレスを通じて何か出来ないかと考えていた。翌十一日に

「一九五号 次長次官宛て 
一 我々の観察ではロシアと中国は日本の(和平のー筆者)提案に同意しないであろう。そして多くの交渉が続けられるであろう。
二 ロシアの介入で中国だけの影響の時とは情勢が異なる。また依然米英の対日態度は大きな影響を持つ。日本はそれらの国家連合に対して、特に厳しい立場にある。 

三 中立国に滞在する我々最後の務めとして、中央の政策に基づき、過去の特別の連絡路を使い,帝国の希望の成就に努めたい。」
過去の特別の連絡路が何をさしているかは,明らかだ。
 
加瀬公使からポツダム宣言受諾について詳しい説明を受けなかったのか,藤村は十二日になっても、やや的外れな情報を送っている。

「一九四号 次長次官宛て 
当地のいくつかの情報筋に拠れば以下の通りである。
一 日本は十一日夜に送られたアメリカの提案を受け入れたというのが一般的意見である 
二 和平交渉は沖縄で行われる。 
五 スイス銀行の口座は十日正午に凍結された。 
六 秘密書類、暗号類は処分を完了」
 
公使館では終戦を待たずに十四日、暗号書と秘密文書を焼却する。一方藤村の方では十五日
「二○○号 軍務局長、第三部長、通信課長宛て 所持している暗号書は以下の通り。他は焼却済み」と報告する。ただし以下の部分は今もアメリカによって覆われていて見る事が出来ない。
 
その時藤村は本人の回想によれば、和平勧告電に使用した暗号機を、アルプスの麓のトゥーン湖の湖底に沈めたという。
翌年一月、欧州中立国に滞在する日本人を帰国させるために船が仕立てられ、失意の藤村もそれに乗り、三月末に横浜にもどった。



<藤村工作とは>

日本海軍に戦時中でありながら、本国に和平を具申した将校がいたことは、賞賛され、後世に残されるべき出来事であった。そして藤村自身の積極的行動には、特筆すべきものがあった。

ただし日本に書き送った電報の内容については、これまで見てきたように、当初から事実を逸脱した藤村の創作が入り込んでいた。ワシントンはダレスに藤村と交渉に入る事を承認したとか、大臣もしくは大使級をスイスに送れという話は、藤村の作り話である。

これを藤村は戦後も公表するが、その際には自己の先見性を強調するため、工作の日時をほぼ一ヶ月早めた。こうした幾重かの要素が、スイスにおける和平工作の事実の究明を難しくした。

真の研究は遅れ、謎めいた秘話ものとして、歪んだ形で広く世間に知れ渡った。藤村の自己顕示欲の強さが、影響したといわざるをえない。

どうして藤村は事実を本国に報告しなかったのか?そして戦後は少しでもそれを正そうとしなかったのか?ダレス機関と間接的であれ、接触したという事実を持つだけに、筆者には残念でならない。

終わりに結果として、藤村に対してやや厳しすぎる本編となってしまった事は、関係者にお赦しを乞う。

    終わり 
これを書いて以降に見つけた新事実などを「スイス和平工作の真実その後」にまとめました。是非こちらも立ちより下さい。

関連:「バッゲ駐日公使のスイス訪問




主な参考文献

回想関係
藤村義朗「痛恨!ダレス第一電」 文芸春秋一九五一年五月号
林茂ほか編「日本終戦史」読売新聞社  一九六七年
大森実「戦後秘史」講談社 一九七五年
読売新聞社編 「昭和史の天皇」一九六七年
「追憶  藤村義郎先生」私家版 一九九三年
西原市郎「戦時中の思い出」海軍機関学校三十二期入校記念会誌  一九七〇年
保科善四郎  「大東亜戦争秘史」
高木惣吉  「私観太平洋戦争」  一九六九年
豊田副武 「最後の帝国海軍」 一九五〇年
小島秀雄 「藤村義朗中佐の和平工作電はなぜ、無視されたのか」  水交 一九七六年
「高松宮日記」  一九九七年
「天羽英二日記」  非売品  日記刊行会
笠信太郎他「海外終戦秘話」自由  一九六三年
ウェスタン.トレーディング株式会社小史「二十年のあゆみ」 一九六八年

研究書関係
本橋正 「ダレス機関を通ずる和平工作」東京大学出版会  一九五八年
本橋正 「日米関係史研究」 学習院大学 一九八九年 
江藤淳監修 「終戦工作の記録」 講談社文庫一九八六年 
大木毅「藤村工作の起源に関する若干の工作」軍事史学  一九九五年

一次史料
高木惣吉関係文書  国会図書館憲政史料館蔵
Japanese Officials on World War ?  藤村義朗、富岡定俊、保科善四郎  国立国会図書館憲政史料館蔵

Magic Summary  国立国会図書館憲政史料館蔵

Translation Reports of Intercepted Japanese Naval Attache Messages, 1942-1946
米国公文書館蔵

終戦工作関係綴り  外交史料館蔵
在外公館附武官関係雑纂  外交史料館蔵

スイス公文書館文書
2001(D)3  Huzimura Yoshikazu
              Kase Shunichi
              Tokunaga Taro
 

その後 北村孝治郎 一部 トップ

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