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| <スイス公使館>
これまでも何度か引用したアメリカの手による膨大な量の外務省、海軍陸軍それぞれの解読電は、毎日重要なものが簡潔にまとめられ、解説が添えられて、上層部にコピー厳禁として回覧された。それは「マジックサマリー」と呼ばれた。
まずドイツ降伏直前の五月四日、神田襄太郎チューリッヒ総領事は、ドイツの総領事ディーンストマンと話し合う。自国が崩壊間際の総領事は
三谷隆信元フランス大使も立ち上がった。三谷はフランスからドイツを経由して、スイスに入国を許されたばかりであった。外交官の資格を持たない難民同様の身である。すぐにベルンを離れ、フランス語圏に位置するモントルーの田舎に引っ込むが、その直前の五月八日 「日本にとって残された道は三つある。一番目が、最後まで戦う力による解決。二番目が無条件降伏、そして最後が少しでも有利な条件を得るために交渉する道である。
また同じく五月八日、加瀬公使はドイツの公使ケッヒャーと話し合った。ドイツ公使もチューリッヒ領事同様「自国をいくらかでも破滅から救うために役に立てなかった」と後悔していた。そして別れに際しては、涙を流しながら 「日本の早い終戦を希望する」と締めくくった。これも東京に送られた。
公使館から一連の和平勧告電が送られた直後の五月十二日
この解釈は藤村が一九四八年、高木少将に対し
五月十四日、加瀬公使もいよいよ、自分の意見として、交渉による和平を本省に訴える。
一方藤村の名前はまだ「マジックサマリー」に登場しない。海軍武官解読電で個別にスイスからの発信電を見ていくと、スイス入りした直後の藤村は、ベルリンから南ドイツに避難し、日本との交信が出来なくなった小島武官らの動向を、本国に伝える任務に専念している。そしてドイツ降伏後の五月十四日に 「ドイツの小島武官との交信は五月五日から不能」と本国に伝えた。ようやく藤村は上官から解放され、独自に行動出来るようになったと言える。 そして同月十六日軍令部第三課にあてて、駐ドイツ武官室消滅後の情報体制についての報告を送る。 「一.ドイツの崩壊を転機として、我々は当地のドイツ空軍武官と、前ドイツの諜報網を引き継ぐ話し合いを密かに開始した。交渉は途中だが、成功する可能性は高い。
我々はこうした組織内で、かれらを快く思わないスイス人もしくは外国人から、更に精度の高い政治、軍事情報を得ることが出来るであろう」と藤村はこの時期、日本の戦争継続のため、ドイツに代わる海軍諜報網をスイスに確立しようとしている様子が分かる。 後の交渉相手であるダレスの名前も登場するが、それは敵側の情報を入手する可能性のある組織としてである。そして藤村はダレスの組織内の反米英的外国人から情報を入手予定と書いている。ハックをこうした目的のために利用出来ると当初は考えていたのかもしれない。藤村がダレス機関の構成員であるハックに接触した動機は、文春の内容とは大分違うのかもしれない。
<藤村動く> スイス在留邦人の和平への取り組みの中で藤村は、すでに活動を始めた外交官に対し、完全に遅れた。藤村の名前がマジックサマリーに登場するのは六月九日である。 「六月五日、ベルンの海軍顧問である西原大佐は日本に、OSSのアレン.ダレス長官がスイスにおいて日本とアメリカの間で話し合いを持つこと、そしてそのために東京から極秘で提督を送るよう提案してきたと報告した。 三部構成の報告書のうち第二部のみ入手したが、内容は以下のようである」とコメントがあり、そこには西原大佐の名前が登場する。第二部は以下のようである。 「ダレスはルーズベルト大統領の特使であり、今はトルーマンに仕え、かれの政治活動はスイスを本拠に全欧州に及ぶ。
A.目下の所スイスは国際会議にふさわしい場所である。そこでは日本とアメリカの話し合いが同等の立場で行える。
C.もし日本が欲するなら、大急ぎで提督クラスもしくは”次の数語文字欠落”(おそらく”大臣クラス”であろうー筆者)を派遣せよ。アメリカはフライトその他の責任を持つ。準備は極秘のうちに進められなければならない。そして提督は二、三週間以内に到着すべきである」 この発電者は西原となっているが、文中には「ダレス側より実際の提案を受けたのは藤村中佐」と表現されている。文春の内容とも照合して、これが藤村の第一電であるといって間違いない。それはつまり六月五日のことであった。沖縄では、米軍はすでに首里地区を占領している。 はっきりと「ダレス機関が接触してきたのは五月二十三日と二十五日であった」と報告している。よって藤村は手記において、日付をちょうど一ヶ月繰り上げ、四月二十三日としたことは明白である。本橋教授の推理は正しかった。 また「ダレス機関が第三者を通じて、藤村中佐に極秘に提案をしてきた」とある。これに関しては、一九六八年に出版された「昭和史の天皇」で藤村自身、日本への第一電を打つ際 「戦争の最中に上司の命令もなく、勝手に和平交渉をするなどということは、軍律でいえば銃殺ものだ。そこでみんなで考えて話を逆にして、ダレスの方からハックを通じて和平を申し入れて来た、ということにして東京に第一電を打つことにした」と、東京に対して、事実と異なる報告をした事を認めている。ただし事実の歪曲は、これだけにはとどまらない。 続いて六月十三日、マジックサマリーは欠けていた藤村第一電の第一部と第三部を紹介する。
「電報の起草者が、西原自身がどうかは、全くはっきりしない」とコメントしている点である。藤村は深夜こっそりと公使館に入り、電報を作成したという。日本の暗号電の解読に関し、アメリカはまさしく行間をも読むような精度を持っていたことが分かる。
またある諜報筋の情報として
ヤルタ会議は、この年の二月四日から、ソ連クリミア半島のヤルタで開催された連合国の巨頭会議で、ソ連の日本参戦が、秘密協定として合意された。 ヤルタ会議での密約は戦後初めて明らかになった話で、公表された時、日本では大きな反響を巻き起こした。それを藤村は戦時中にすでに、報告していた。アメリカの指導者層は、この箇所を読んで相当肝を冷やしたはずである。しかし受け取った日本海軍には、これも重大視した形跡はない。首をかしげざるをえない、情報音痴だ。 そして秘密協定の内容が、ハックを通じてアメリカ側から意識的に漏らされたとしたら、ダレスも藤村との交渉に、何らかの期待を持っていたと解釈できるが、確認するすべはない。
<第一電、第三部> 続いて六月十四日、サマリーは第一電の残りの第三部を紹介する。それは「私見」と題されている。藤村の見解である。 「A.ダレスの特徴
C.秘密の維持
藤村がダレス側に渡す内容をハックと話し合った際、ハックが藤村の意見を取り入れて、一部修正に応じたという。これだけをして、アメリカが藤村との交渉に応じた、と考えたとすれば相当楽観的である。 これは文春で藤村は全く触れないものの、西原の回想録には載っている内容だ。またルガノの百回に及ぶ交渉の話とか、ソ連とスイスは国交がないので交渉に最適であるという話も同様である。 最初のハックとの会合には、西原も同席したと藤村も証言している。おそらくそれは事実で、それゆえ当事者しか知り得ない内容を、西原は回想に書く事が出来たのであろう。 他方ヤルタ会談の秘密協定の情報は、間違いなく大スクープであった。大手柄である。藤村が手記で触れない理由は、よく分からない。敗戦直後、アメリカ側に好ましくない、ダレス機関からの情報漏れの話は、意識的に避けたのであろうか?
<日本海軍の疑念> 文春に戻ると以下の箇所がある。
これを見て藤村は怒りを覚える。そして東京に対し猛烈なる説得工作を開始した。文春では「
第一電に引き続き、五月十日、十三日、十四日、十六日、十八日、二十日と計七電を打った」となっている。しかし日付けを別にしても立て続けに説得を試みる電報は、海軍武官解読電には見つからない。
「一四一号 副大臣 次長宛て
「敵の謀略と思われるような、こうした性格の話について、われわれは絶えず当地公使、陸軍武官と接触し、間違えのないよう努めてきました。しかしまったく敵の謀略の可能性が考えられない今回だけは例外です。
<藤村のねばり> 七月十四日藤村は「ダレスは最近ベルンを離れドイツに向かったが、西原が望めばいつでも接触できるようになっている」と報告する。
「仲介者(ハック)は、ダレスの私的秘書で、一九四〇年からの親友であるドイツ系アメリカ人フォン.ゲベルニッツと話しあった。
ゲベルニッツの知る範囲では、降伏は表面上無条件だが、内実は和らいだ条件のものになろう。そしてダレスは日本からの要請があれば、いつでもスイスに戻る」と報告した。 初めてハック以外で、ダレス機関に所属する人物の名前が初めて登場するが、それはまさに終戦間際のことであった。ではこれまでハックは誰と話をしてきたのかと新たな疑問が湧き起こる。また同氏の登場は、文春では四月末となっており、大きくずれている。 七月十七日、また電報が送られる。藤村が、猛烈に東京に電報を送り続けたというのはこの頃、つまり七月中旬のことであろう。藤村は確かに何度か、長文の具申電を書き送っている。この熱意、真摯な態度は賞賛されてしかるべきものである。そしてそこでは
「A.目下の所アメリカは、ロシアとの協調を有意義に思っている。
C.アメリカの軍人や、ビジネスマンは対日戦に絶対の自信を持っている。ダレスは北イタリアでの実績を持つ人間である。したがって日本とアメリカの間で、早急に平和に導くようなパイプを作ることが望ましい。
D.こうした状況を認識したダレスは北イタリアの実績がある。可能ならば和平を早めるために、日米の連絡路を設立するのが彼の希望である。 提案がアメリカの謀略であると言う情報は無い。相手の政府に許可を求めた電報から判断して、むしろこれは(ダレス?ー筆者)個人のイニシアチブで始まったものと考える。 二 結論として現下の連絡路を断ち切らない事は,戦況がどう変わろうとも日本にとって絶対に必要である。貴官の意見を窺いたい。ひとつの考えは日本にいるアメリカ人捕虜の情報を提供する事で、敵はその見返りにフィリピンで捕らえられた、日本軍指導者の情報を出すであろう。こうして日本の政策軍事作戦などに影響を与えない限りにおいて、秘密の連絡を保つのである 日本のデリケートな事情も分かる。しかし私はこの件に関して何かをやりたい。それは飽くまでも東京の指示があっての話です。どうかただちに返事を下さい」と書いた。 ダレスの話が謀略でないことを、終始藤村は訴えるが、その根拠は以前と同じである。そして今回,和平交渉と言うよりはダレスとの連絡路の開設に自分の要求を微妙に変えている事が分かる。
電報の前半でははっきりと「ハックを介してのみ、ダレス機関と接触している」と述べている。戦後にダレスと直接会談をしたのいうのは、創作であることは明らかだ。
<笠の和平勧告> 次いで二十日、藤村は朝日の特派員でベルンに駐在する笠信太郎の意見を送る。笠については藤村は文春でも 「スイスにはすでに朝日新聞の笠信太郎氏(元論説委員)が早くから来ていて、日米和平に活躍していた」と紹介している。 「一七○号 スイス武官発次官,次長宛て
Aモスクワの十九日の国内放送は“ポツダム会議で日本問題が話し合われ、対日戦勝利の方法が決定された”と伝えた。モスクワの態度はニューヨークのヘラルドトリビューンに絶えず登場するアメリカの対日条件と対照的である。(中略)
「この件は外務省に移管した。かれらから貴地公使館と接触するので、海軍は今後、少なくとも表向きは一切関与しない。 目下日本は全力を挙げて、戦争の継続に努めている。最近の敵プロパガンダの性格から判断して、敵が困難に直面していることが窺われる。海外の海軍出先は慎重に行動し、軽率な行動は慎むように」と紋きり文章で、藤村を落胆させるに十分な、内容であった。 これを取り上げたマジックサマリーの脚注には
加瀬の説明ではヤコブセンは、二回ダレスと話し合ったという。この話し合いが西原の活動と関係がある、という証拠はない」と東京ですら、スイスから二つの和平の話が入り込んで混乱したものの、アメリカ側は冷静に理解していた。 実はこの時スイスでは、陸軍の岡本清福陸軍武官を中心とする和平の動きが、平行して進んでいた。相手は同じダレス機関であった。ロシアの仲介を当初は主張した加瀬公使は、岡本ー北村ーヤコブセンルートを影で援助していた。 海軍も陸軍も、スイス公使館内に事務所を開設していた。加瀬は藤村とも毎日顔を合わせていたにもかかわらず、藤村らの動きは全く知らない。東京から、自分の公使館内藤村の工作を聞いた加瀬が、これを真剣に取り上げなかったのは、後に紹介する外務省への報告電に、見る通りである。
<命令受領> 東京からの返電を受けて藤村は
「二十二日の貴電の拝領。
三.東京が必要とするなら、ただちにアメリカと連絡をとる道は、今後もわれわれには開かれています」 この電報の日付も、藤村は一ヶ月繰り上げている。すでに日本の終戦は、秒読みに入っていた。 <OSS文書> マジックサマリーとは別の、アメリカ側の公文書によっても、藤村証言の検証が可能である。アメリカ側の藤村の提案に対する、捉え方もそこからはある程度見ることが出来る。スイスのOSSとワシントンの国務省との間の交信録は、やはり一九七十年代後半になって、閲覧が可能になった。その一つである 「合衆国外交関係文書集 一九四五年」を見ると、OSS長官代理G.エドワード.バックスタインが六月四日、国務長官に宛てた報告に藤村が、最初に登場する。藤村が第一電を送る一日前である。 「この情報の源も、前と同じ反ナチ親日の極東通ドイツ人であります。情報源は藤村に接触しています。藤村は在欧日本海軍の代表の一人で、前ベルリン軍武官補佐官でありました。藤村は日本海軍大臣と、直接且秘密の通信連絡をもつと伝えられ、また日本政府の信頼を得ていると信じられます。 藤村は、情報源に対し、日本政府を今やコントロール(?)している海軍部内の一派は、共産主義と混乱を防ぐため、天皇を保持する必要を特に強調していると言います。 藤村は日本が基本的な必要食料を自給できず、砂糖と米とを朝鮮に依存している、と強く主張しています。彼はまた、必要食糧輸入のため、商船隊の保持を日本が必要としていると主張しています」 ここでは天皇制の保持等の日本の降伏に対する条件ないしは希望を、藤村がすでにアメリカ側に提示したこともわかる。日本と事前に協議した跡はない。 そして自分が独断で和平の条件を持ち出した後も、いっさい日本に報告しなかった。ひたすらスイスで交渉に入ることの有利を訴えた。独断先行と断罪されてもしょうがない。 藤村は戦後「ダレス機関からではなく実際は自分の方からダレスに接触した」と手記の内容を訂正した。これは事実であろうか?
藤村の登場よりひと月ほど前の五月十二日、OSSから国務長官にあて
ハックは祖国ドイツの崩壊後、藤村ではなく、まず加瀬に接触した。そして勇気ある和平を日本公使に勧めた。しかし加瀬は態度が煮え切らない。こうした公使の態度はすでに見てきたが、当時の朝日の駐在員であった笠信太郎も「もどかしさを覚えた」と回想している。外交官としての限界であろうか? そこで約一ヶ月後、ハックは対象を藤村に代えて接触し始める。藤村は加瀬と違って、行動的であったのはすでに見てきた通りだ。
さらにはハックが「アメリカ側も交渉に乗り気である」とか「日本から大臣級を派遣させろ」いう話を持ち出し、藤村をその気にさせたのかもしれない。
<OSS電からの推察> マジック電によれば、藤村は第一電ですでに、ダレス側から提案の提督クラスの派遣に触れている。しかし、この話は米国側の公文書には出てこない。常識的に考えても、勝利間近のアメリカが、そのような事を申し出るとは考えにくい。藤村は東京を説得するため、自ら創作しもしくはハックの助言を受け、打電した可能性が強い。 藤村は別の箇所で「ダレスは影響力が強く、必要とあれば、アメリカ軍は協力を惜しまない」と評価している。
そして飛行機による提督派遣の話であるが、藤村は、文春以降は全く出さなくなる。本人が、荒唐無稽という印象を与えると判断したからであろうか? またOSS電は
痛恨ダレス電は藤村が書くように三十三、五通ではなく、計七通であることしている。これはこれまで見てきたマジックサマリーの本数とも、ほぼ一致する所である。藤村は確かにその間東京に、和平勧告電だけではなく全てをあわせると三十本くらいの電報を送っている。その数を語ったのかもしれない。
藤村は万事休すと、ほぼ訓令どおりに工作から手を引いた事が確認できる。ただし後半の「価値ある接触は続ける」というところは、マジック電で見た
<ダレスの反応> 文春の末尾に藤村は書いている。
アメリカ側も真剣に考えていたとする藤村であるが、もう一方の当事者であるダレスは、実際どのように考えていたのであろうか?読売新聞社は今から三十年ほど前、質問書をダレスに送って、返事をもらった。 「一九四五年に私が関係していた、対日和平工作の内容に関する質問書を同封した、あなたの丁重なお手紙をいただきました。 あなたの質問に全部お答えするには、私としても多重に資料を調べたりしなければなりませんが、他のさしせまっている仕事のため、そのことに時間をさくことができるかどうか疑問です。 最近、アメリカやイギリス、ドイツ、その他の国で出版された、そして日本語版も出版されるはずの私の本”ザ.シークレット.サレンダー”(秘密の降伏)の一番最後の章に、それらの和平工作について、簡単に触れているので、まずそれをご参照下さい」 ダレスの指摘する部分を見ると
かれらは至急に和平を確立するために、サンライズ作戦のために確立されたワシントンとの秘密の連絡を、使用できるか打診してきたのであった。(サンライズ作戦とは、ルガノで行われた北イタリアのドイツ軍降伏交渉のこと。ー筆者) 私はワシントンに報告し、日本の言い分を聞く権限を与えられた。バーゼル銀行の有能なスウェーデン経済顧問ベル.ヤコブセンもこの話に加わり、ワシントンとベルンの間で活発な意見の交換がなされた。 一九四五年七月二十日、ワシントンからの指令のもとに、私はポツダム会議に出席し、そこで、私が東京との交渉で知り得たこと(日本は皇室を持続でき、日本国民に降伏のニュースが流された後、日本に規律と秩序を維持するために、基本的団体が維持できるならば降伏したいということ)をスチムソン陸軍長官に報告した。 このころには、イタリアの降伏のニュースと、それがどのようにもたらされたか、という話が広くジャーナリズムによって広められていた。その効果は伝染病のように広がった。不幸にして日本の場合は、われわれの方に時間がなくなっていた」 ダレスは終止素っ気無い書き方で、藤村に会ったどころか、名前すら出てこない。よってハックによる接触に対するダレスの反応を見ることは出来ない。 文中スエーデン人ベル.ヤコブセンと話し合う記述があるが、かれは藤村の代理ではなく、陸軍岡本中将の代理である。ダレスは陸軍の動きとも、混同している。 日付けに関して言えば藤村らの接触の時期は、五月でなく、沖縄戦の頂点の四月としている。ダレスは全体として荒っぽい書き方しかしていないが、これに藤村があわせた可能性はある。 ダレスはこの中で「日本側の言い分を聞く権限」を与えられていたと説明している。交渉のテーブルについたわけではない。交戦中の相手国人の話を聞くことを許されただけであった。これが藤村らスイス邦人の接触に対する、ダレスの基本的立場であった。藤村は常に自分に都合のよい、解釈をしていた。
<海軍の反応> スイスから和平の勧告電を受け取った、日本の海軍関係者の反応はどうだったのであろうか? 保科善四郎海軍省軍務局長は一九五〇年一月十六日、GHQに対して陳述を行う。藤村へのインタビューより、九ヶ月前である。
「その翌日の五月二十一日か二日に東京海軍省軍務局長から武官宛に親展で返事が来た。ところがそれによると“貴武官のダレス氏との交渉要旨はよく分かったが、どうも日本の陸海軍を離間しようとする敵側の謀略のように思える節があるから、充分に注意されたい”というのである」と書いているが、それは保科のことを指している。証言は以下のようだ。 「それは私が海軍省軍務局長に就任してから間もなくの頃であった。恐らく一九四五年六月初めの頃であったろう。軍務局第二課長末沢慶政大佐と同課員有馬高泰大佐とが、いかにも嬉しそうな面持で、一通の電報を私に届けに来た。 私はこの電報を米内海相に持って行って御目にかけたが、海相も嬉しそうであった。暫くして軍令部次長の大西滝治郎中将から、これは米国が、日本の陸軍と海軍とを離反するために、謀略として藤村に申し入れてきたものであると思われるから、これに応ずる事は反対であるとの意見が出た。 当時は尚、終戦を希望するような事を強硬に主張する事は、遠慮しなければならない状勢であった。それで大西の主張が勝ちを占めた。(中略)軍務局長の所見として、東郷外務大臣に移し外務大臣において、適当に処理して貰う事に致しました」 藤村の第一電の時期に関しては、六月上旬と正しく記憶している。しかし「米内海相も嬉しそうであった」となっているのは、疑問が残る。
「六月二十五日に海軍大臣室から回覧されてきて、私が受け取った電報の日付や内容について、藤村氏と私の話し合いによって、記憶に相当な食い違いはあるが、やはり私は私の”保科メモ”を固執せざるをえない結論に落ち着いた。」とある。日付けについて藤村との相違を認め正そうとしたが、藤村のほうがそれを避けたようだ。 次いで富岡定俊軍令部第一部長である。日時は同年二月十日、
「交渉を進める事を、上司に進言する決心をした。ところが私の直接の上司である軍令部次長大西滝治郎中将は、当時既に継戦一本槍の意気込甚だ強い事を、私は知っていた。
”君らは専ら作戦に心血を注いで居れば宜しい。和平の問題は、君が考えるべきではない”それ以来この問題には、一切干与しない事にした」と、好意的に藤村電を捉えたが、総長の一言は影響が大きかった。 部下の進言を却下したとされる軍令部総長豊田副武は戦後、自著「最後の帝国海軍」のなかで次のように説明している。一九五〇年の発行である。
当時それに対して海軍が下していた観測は、概ね次の如きものであった。
第二、米代表ダレス氏の提案は、日本海軍が一歩踏み出すだけの関心をそそるような具体的な内容を持っていない。(単なる抽象的な言辞のみで、内容とか条件というものはなかった) 第三、ダレス氏はドイツの終戦について非常に活躍した人だそうであるが、ドイツの終戦の模様というものは当時我々の知る限りに置いては、日本の模範とするような何物もなかった。同じ手に乗って日本もうまく行くとは考えられなかった。 結論として、この進言は日本の戦意を打診するバロン.デッセエ(観測気球)か、ないしは戦意破壊の謀略以外には、解せられない」
アメリカ側が飛行機を派遣すると言う話は、日本では誰もが耳を疑った。藤村が事実と違う内容の電報を打ったことが少なからず、影響したようだ。 最後は、海軍の良識派といわれた海軍省教育局長高木惣吉少将である。次の文章は、一九六九年に書かれたものである。 「私の見聞した藤村電には、米国が対日戦に英.ソの参戦を望まないこと、対日戦が七月下旬までに終らなければ、ソ連が対日戦争に参戦することを示唆し、ルーズベルト大統領が同意したこと、米軍部は大規模の空襲、工業、輸送、都市の破壊後、本土上陸、無条件降伏をねらっており、その時期は七、八月と判断されること、ダレス特使は五月二十三日、二十五日の二回申し入れてきたこと、海軍将官級をスイスに送る意図があれば、飛行機は先方で準備する等の要旨であった」 藤村とダレス機関との会談の日付を正確に再現した。スイスからの電報に接し、メモを残した証左である。同時に自分の態度として
軍令部次長藤大西は、特攻の父と呼ばれる海軍の中では最強硬派で、藤村電については真っ向から否定した人物である。敗戦と共に覚悟の自殺を遂げる。よって手記等は残されていないが、当時のコメントが高松宮日記の中にある。七月二十六日 「(大西)次長より、和平の噂しきりに始まり,これでは”特攻”も行かなくなるし、暗殺も始まるであろう等の所見あり」と迷惑そうに書いている。ここでの和平の噂とは、藤村電も含んでいようか? 当時の電報をひとつ紹介する。それは八月十四日、海軍次官、軍令部次長の連名で海外武官に向けて
<高木惣吉関係文書> 先にも紹介した高木少将は一九四四年九月、米内海相から「極秘のうちに戦争の後始末の研究をするよう」命じられた異色の経歴を持つ。かれは終戦でも、関係する文書を焼却しなかった。それが今日「高木惣吉関係文書」として公開されている。 藤村についての記録も含まれている。同文書は終戦関係の研究者の間では知られており、幾度と引用されているが、スイスの和平工作に関連して用いられた事はない。
一九四五年五月十二日に「在スイス武官からの報告」として
二.レー中将が個人的に承知しあるかぎりにては、日本人に対する戦争責任者名簿は臣下に限定されありと。又欧州における戦争責任者総計は二千人程度にして、各責任者は被害国家に引き渡さるべしと。
木の書き記した内容の電報は、アメリカの解読電には無い。漏れているものがあることを証明すると同時に、藤村の活動について多くのことを明らかにしてくれる。 つまり「ダラー」ことダレスの活動を初めて報告したこの電報を、戦後藤村は第一電の日としたのではなかろうか?第一電の日付は、早ければ早いほど、藤村の先見性を際立たせることになるからだ。しかし言うまでもなく、これは単なる情報であり、和平勧告ではない。 同時に日本がソ連を介して和平をするという、スイス国内での噂が紹介されている。先にも紹介したように同国ではすでに、この話が広まっていた。欧米のマスコミもそうした予想を書き、藤村の眼にも止っていた。
そして藤村の和平勧告第一電は、これまで日本には存在しないとされてきた。それ故に今日まで藤村らの回想が、そのまま受け入れられたのだ。筆者はこれを長年捜し求めて来た。ところが当時電報に目を通した高木が、内容を記録に残していた。確かに原文ではない。しかし出会ったときは手前味噌ながら、まさに意志のあるところに道があるという印象であった。以下の文面を読んで、例のマジック電に戻ると、彼等の暗号解読レベルの高さを再認識させる事にもなる。 在瑞西武官電報要旨 二十ー六ー七(二十年六月七日)
一.トルーマン、ステチニアスの人気下がる。米は表面、無条件降伏を叫びつつも、内心は速やかに対日戦終了を焦る
そして海軍の責任者であった、米内光政海軍大臣の藤村電に対する反応も、大きな謎として筆者に残っていた。間接的なものばかりである。
そこからも保科軍務局長が述べる「私はこの電報を米内海相に持って行って御目にかけたが、海相も嬉しそうであった」というのは疑わしい。米内は、藤村の電報に対しても同様の反応を示し、一件を部下から取り上げ、外務省に回しているのである。 ところが高木は藤村電の内容を記録した末尾に「米内大臣の考え」として
と短いながらも書き残している。確かに藤村の進言は米内海軍大臣の耳にも届き、感想も発せられたのだ。しかし文面にあるように頼りの大臣の反応は他の幹部同様かなり懐疑的、そして及び腰であった。
<日本の対応> スイスからの熱心な働きかけに対し、日本からは
藤村工作が、いよいよ最終段階に入ってからの経緯は、例外的に日本の外交史料館に残されたいくつかの電文からも、正確に捉えることが出来る。和平関係の文書は連合国が進駐してくる前に焼却する必要ない、と判断したからであろう。 海軍省から話が回ってきた直後、七月二十三日の東郷外相発加瀬駐スイス公使宛電は 「一.最近貴地海軍武官より”ルーズベルト”の在欧州特使Dullesなる者より、確実なる第三者を介して、同武官に対し”日本側に於いて米国と絶対秘密裡に話し合うの意向あらば華府政府に伝達すべく、東京より海軍高官を瑞西に派遣の意向あらば、飛行機その他の準備を引き受ける旨申出たる趣を以って措置振を請訓越せる処、海軍中央に於いては当方と連絡の上 ”敵の謀略及離間工作頻りに行われ且、主目標を帝国海軍に置きあるやに認めらるるに鑑み、中央としては本件は取上げざる意向なるが、この種工作に対しては所在帝国官憲と密接連絡し周到に観察すべし”との趣旨の回訓を発せると共に、本件処理を外務省に一任し来れり。
本件相手方を通じ米国当局の和平問題に関する真意を探り得るや、に関する貴見等至急御回電相成度」と終戦間際にもかかわらず、長文の訓電となっている。 しかし当時の慌てた状況を反映してか、記述があまり正確ではない。冒頭貴地海軍武官よりと書いてあり、正式な海軍顧問という称号が使われていない。 アメリカ側が電報の発信人が「西原本人かどうか不明」と判断していたのに対し、外務省ではスイスから海軍大臣に宛てた電文の内容を、吟味した跡もない。発信人の西原が送ったものと考えている。 そして古びたこの電報のオリジナル原稿をよく見ると、欄外に手書きで「発電前海軍見せ」「海軍より先ず藤村武官に対し有島大佐より発電済みなる由電話あり」と書き込まれている。海軍の発電を確認した後、これが送られたことが分かる。七月二十三日のことで、海軍のは一日前の二十二日であった また文末に「本件相手方を通じ米国当局の和平問題に関する真意を探り得るや」と外務省は、このルートを通じて、いくらかでもアメリカの和平に関する真意を探ろうとした未練が感じられる。 七月三十一日、それを受けた加瀬公使は返電を打つ。終戦近くなると通信事情の悪さで、スイスと東京の間では到着まで五、六日かかるようになっていた。であるから実際は、スイスからは折返し返事が送られたといえる。 「本件海軍武官及補佐官より聴取せるが(当地には正式に海軍武官なく当館海軍顧問なるが、藤村補佐官著任後、同人の性格上並びに西原武官が技術官なる関係より、種々問題を惹起し居れり)”イニシアチブ”が米国側より申しでたるものとは見とめ難きに付、黙殺せらること然るべしと存す。 尚”ダラス”の人物に付いては往電第七九九号にて御承知の通り、又確実なる第三者とは予ねて防共協定当時日独の間に連絡係たりし独人”ハック”にして従来当地に於いて海軍側の使用し居りたる経緯あり、本件は同人が”ダラス”の秘書と友人なる関係を利用せるものと認めらる」 海軍武官とは西原のことであり、補佐官が藤村のことを指している。藤村のスイス入り以来、海軍関係者の間では、関係がぎくしゃくしだした。加瀬公使はその原因として、藤村の性格に言及している。実際藤村はスイス入りしてから、武官として振舞っていたようだ。七月十七日に藤村は東京に宛てて 「一六四号 貴電三七七号 軍務局長宛て アルミ溶接の製造件の購入の合意の後、主に西原大佐を実際の製造の訓練や技術的問題に当たらせている。もし何か調査を希望するのであれば、事前に自分に連絡を」と西原を自分の部下とするような報告をしている。(解読電) 手柄を一人占めにしたがる性格といわれる藤村と、元々技術者である西原の角逐は想像できる。戦後になって、同期の角田求士が「藤村君と私」と題し
しかし日本への発電権は、上官である西原が握っている。そこで西原の名前を使って、こっそりと発信したのも、藤村らしい解決策であった。よって日本への和平の電報は、一部を除き西原は目を通していないはずである。 さて事情を聞く加瀬公使に向かって、藤村は本当の事を言わなかった。「提案がダレスの方から来た」と聞くと、公使は気分を害した。それが東京に対する、黙殺すべしという先の報告となった。 日付けをさかのぼると、七月二十一日の加瀬公使の親展電報も外交資料館に残っている。内容は同じくスイスの岡本清福陸軍武官による和平工作の報告であった。陸軍武官も個人として動いていた。加瀬公使は岡本ルートに関しては、海軍のとは対照的に 「現下慥かに一のよき筋と認められる」と高く評価した。職業外交官の眼には、陸軍ルートの方が、信頼がおけると映った。単純に、事前に相談を受けたという理由から、支持をしたのかもしれない。
八月十日、ベルンの公使館に、ポツダム宣言の受け入れを伝える日本からの訓令が届く。加瀬公使はその日のうちに、スイスの外務省を訪問し、日本の降伏の意思を連合国に伝えるよう依頼した。 それにもかかわらず藤村は、まだダレスを通じて何か出来ないかと考えていた。翌十一日に 「一九五号 次長次官宛て
三 中立国に滞在する我々最後の務めとして、中央の政策に基づき、過去の特別の連絡路を使い,帝国の希望の成就に努めたい。」
「一九四号 次長次官宛て
<藤村工作とは> 日本海軍に戦時中でありながら、本国に和平を具申した将校がいたことは、賞賛され、後世に残されるべき出来事であった。そして藤村自身の積極的行動には、特筆すべきものがあった。 ただし日本に書き送った電報の内容については、これまで見てきたように、当初から事実を逸脱した藤村の創作が入り込んでいた。ワシントンはダレスに藤村と交渉に入る事を承認したとか、大臣もしくは大使級をスイスに送れという話は、藤村の作り話である。 これを藤村は戦後も公表するが、その際には自己の先見性を強調するため、工作の日時をほぼ一ヶ月早めた。こうした幾重かの要素が、スイスにおける和平工作の事実の究明を難しくした。 真の研究は遅れ、謎めいた秘話ものとして、歪んだ形で広く世間に知れ渡った。藤村の自己顕示欲の強さが、影響したといわざるをえない。 どうして藤村は事実を本国に報告しなかったのか?そして戦後は少しでもそれを正そうとしなかったのか?ダレス機関と間接的であれ、接触したという事実を持つだけに、筆者には残念でならない。 終わりに結果として、藤村に対してやや厳しすぎる本編となってしまった事は、関係者にお赦しを乞う。 終わり
主な参考文献 回想関係
研究書関係
一次史料
Magic Summary 国立国会図書館憲政史料館蔵 Translation Reports of Intercepted Japanese
Naval Attache
Messages, 1942-1946
終戦工作関係綴り 外交史料館蔵
スイス公文書館文書
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