マルセ太郎のページ
「記憶は弱者にあり」 がんとともに生きた市井の哲学芸人・マルセ太郎
「死をも含めて人生」私とマルセ太郎 数野 博

→全国マルセ太郎中毒患者会 →マルセ太郎のエッセイ集
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●マルセ太郎のプロフィール●
昭和8年大阪生まれ。新劇俳優を志し、29年上京、マルセル・マルソーの舞台をみてパントマイムに興味をもち、彼の名前にちなんでマルセ太郎と命名。その後コント活動を経て、動物の形態模写を中心に、浅草の演芸場に出演。特にサルの形態模写はその迫真力で他を圧倒。評論家の矢野誠一氏をして「内面的な描写からサルにせまり、本物のサルよりもはるかにサルらしく哀しげだ」といわしめる芸である。59年より、映画再現芸というまったく新しいジャンルを開拓。一本の映画の最初から最後まで徹底的に語り尽くす一人芸である。レパートリーは15本。新作にも積極的に取り組んで、渋谷のジャンジャンの10時劇場と始め、各地で活躍していた。

「マルセ太郎さんには、話術とか話芸という言葉が似合いません。
動きをもった舞台の言葉、新しい形の情報伝達者です。
主張があり、批判が込められ、そして、それが楽しいのです。」
永六輔

今日(2002年1月22日)はマルセ太郎さんの一周忌です。
マルセさんと岡山の病院で過ごした一年前の長かったその日を思い出します。
マルセさんはいつも私たちの中で生きていて、語り続けています。

「記憶は弱者にあり」 がんとともに生きた市井の哲学芸人・マルセ太郎さん
[私に問いかけ 12年前の手紙] 高校生小川なつき(宮崎市、18歳)朝日新聞「声」欄 2002年1月10日
「弱者の視点で映画再現芸」ボードビリアン マルセ太郎さん 毎日新聞「悼」2001年3月27日
「記憶は弱者にある 」辛淑玉 (シンスゴ)さん 週間金曜日より転載 348号 1/26 から引用
「愛国心は悪いものです。日本が愛国心の名のもとにいいことをしたという事実があるなら教えてください。
愛国心が歴史的に良い方向に作用したのは侵略された側においてなんです」
「憲法を変えたい連中は憲法は押しつけだというくせに、農地解放が押しつけだとは言わない」
[「Be動詞への自信」中学生のみなさんへ] マルセ太郎(週間「金曜日」1996年7月19日)
[人生に必要なもの] チャップリンは「夢と希望」などという軽薄な言葉ではなく「勇気と想像力」と言っています。
「死をも含めて人生」私とマルセ太郎 数野 博

[私に問いかけ 12年前の手紙] 高校生小川なつき(宮崎市、18歳)
朝日新聞「声」欄 2002年1月10日

先日、母が「こんなものが出てきたよ」と古ぼけた封筒を差し出した。故マルセ太郎さんからの手紙だった。12年ほど前、マルセさんのお芝居を母と見に行き、その感想を書いて出したら返事を下さった。「がっこうのべんきょうもがんばってください。べんきょうをがんばるのはひとにかつことではありません。おとなになったとき、よわいひとのたちばにたってものごとをかんがえるようになるためです。つよいということは、よわいものをいじめることではなくよわいひとのためにたたかえることです。つよくやさしいひとになるため、べんきょうしてください」当時7歳だった私にはよく分からなかったが、今読み返してみて、とても考えさせられた。私は受験生で、がむしゃらに勉強している。しかし何を目標に勉強しているのだろう。弱い人のためだろうか。大学に入り、自分の夢をかなえるためだけではないだろうか。果たして、それでいいのだろうか。マルセさんは、12年越しに私に問い掛けている。


「イカイノ物語り」広島公演の前夜(1999年8月8日)
一緒に広島入りした永六輔さんと別れて駅前の中華料理店でマルセ太郎夫妻とドクターちゃびん

[マルセ太郎の箴言]「人間屋を代表して一言」マルセ太郎(「人間屋の話」序文) 2000年11月1日
[「Be動詞への自信」中学生のみなさんへ] マルセ太郎(週間「金曜日」1996年7月19日)
「奇跡は奇跡的には起きない」マルセ中毒の会広島・福山病棟 数野 博 2000年11月18日
マルセ太郎・入門篇★今月の顔★『マルセ太郎さん』「シナブロ」2000年12月号
イカイノ物語

一病息災、マルセ太郎さん(芸人)の場合 NHKきょうの健康2000年10月号
マルセ太郎の病棟日誌 2000年4月24日から5月10日まで
マルセ太郎の病棟日誌 2000年2月17日から2月28日まで
[本当のインテリとは] マルセ太郎が語る「マルセ太郎・記憶は弱者にあり」(明石書店)より
[「人格者」と「偉い人」] マルセ太郎が語る「マルセ太郎・記憶は弱者にあり」(明石書店)より
「マルセ太郎の幸福論」/マルセ太郎
「春雷」マルセ太郎喜劇プロデュースVOL.10 1999年12月9日
ガンと“共生”マルセ太郎さん 1999年7月15日 中日新聞 夕刊
スクリーンのない映画館「生きる」1999年2月24日 福山
「猪飼野物語」を書く前に 1998年12月22日 マルセ太郎
「僕は多数の日本人に絶望しかけている」 マルセ太郎

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Xデー by マルセ太郎 編 2000年10月5日 趙 博
イカイノ劇評 その1 1999年8月5日 産経新聞 小田島雄志の芝居遊歩
「この人」1999年1月3日 赤旗新聞
「マルセ太郎さんのがんレポート」「終・OWARI:大往生その後」永六輔著より
「肝臓がん手術後の日々綴る」二本松泰子 1998年6月24日
「マルセ太郎喜劇プロデュース」角田達朗 98年7月
「マルセ太郎自由自在」木村万里 98年8月新聞
生涯ザ・マイナー 「芸人魂」 / マルセ太郎(講談社)

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「弱者の視点で映画再現芸」ボードビリアン マルセ太郎さん 毎日新聞「悼」2001年3月27日
「『本物』しのいだ表現力」ボードビリアン マルセ太郎さん 朝日新聞「惜別」欄 2001年2月7日
「笑いと感動 ありがとう」村田千晴さん(真酒亭)2001年1月31日 北日本新聞
「芸人魂 命の限り」西日本新聞コラム「春秋」2001年1月28日
「"芸人魂"命の限り」マルセ太郎、最後の福岡公演 毎日新聞(夕刊)2000年11月11日
「奇跡は奇跡的には起きない」マルセ中毒の会 広島・福山病棟 数野 博 2000年11月18日
「記憶は弱者にある 」辛淑玉 (シンスゴ)さん 週間金曜日より転載 348号 1/26
「芸人マルセ太郎さんをしのぶ」藤井康広さん、マルセ中毒の会メイリングリストより 2001年1月25日
「信念転じて笑いとなす」マルセ太郎さんを悼む 2001年1月24日 朝日新聞掲載
「とても無念です」昨年入院中のマルセさんを見舞ってアフタヌーンティーで話した人 2001年1月23日
「マルセ太郎さん死去」独自の話芸、ボードビリアン 2001年1月23日 朝日新聞掲載
「マルセ太郎のこと」 野田 泰弘 高津高校5期生の前のホームページ

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「死をも含めて人生」私とマルセ太郎
数野 博

私はマルセさんと一緒に下ろされる幕をしっかりと見つめさせてもらったマルセ中毒の会・福山病棟の町医者です。マルセさんのことはかなり前から知っていましたが、1994年11月に福山で初めて公演を見ました。「マルセ太郎のロードショー」というタイトルで形態模写と漫談だけでしたが、強烈な個性を感じました。「奇病の人」によると、この時マルセさんは肝臓ガンを告知される直前だったようです。ガンの手術を受けて2年半後の1997年6月に岡山県の美星町の中世夢が原へ「息子」を見に行き、是非私が主催する「びんご・生と死を考える会」で「生きる」をやってもらいたいと考えるようになりました。

マルセさんを呼ぶためには、広島に「マルセ中毒の会」というのがあって名付け親で公演をとりしきる池田正彦という人に頼まなければいけないということを知りました。それは広島の大きな美術館の館長の名前でした。人を介して頼んだところ「町医者が?マルセを?」という感じでしたが、諦めずに広島でのマルセさんの公演と打ち上げに参加させてもらいました。初対面の池田さんは私と同じハゲ頭の昔の文学青年という感じの人で、美術館の館長は同性同名の別人でした。こちらの本気を信じてくれたのか、同病合哀れんでくれたのか、広島公演の一日を福山に割り当ててくれることになりました。会場探し、ポスター作り、チケット売り、マスコミへの宣伝、スタッフの打ち合わせ、そしていよいよ「生きる」の当日です。

1999年2月24日、池田さんがマルセさん一行と一緒に来て、色々と手伝ってくれました。きっと福山の「ハゲの薮」が何をするのか心配だったのだと思います。池田さんは「みんな初めてじゃろうけえ是非見ときんさい」と一人で受け付けの番をしてくれたので、スタッフも全員会場に入れました。マルセさんのスクリーンのない映画館は福山では初めてでしたので近況報告のかわりに、ご自身の癌の体験を「時間とは?生きるとは?死とは?」という人生哲学の授業にしてくれました。そしていよいよ「生きる」の上映です。会員には癌患者の人も多く、マルセさんの熱演に生きる勇気を頂いたという感想も沢山ありました。そして私は本格的なマルセ中毒になってしまったのです。

マルセ喜劇の集大成である「イカイノ物語」の1999年8月8日と9日の広島公演は各地の公演のトリとなりました。私は「マルセ太郎<イカイノ物語>百人委員会」のメンバーとして、準備の段階から参加しました。公演前日のマルセ一座の広島入り、初日と翌日の最終公演、そして打ち上げ会と終始マルセ一座と行動を共にしました。打ち上げ会で、マルセ一座の紹介の最後にマルセさんが私の名前を呼び上げてくれた時には驚きと感激で感極まってしまいました。

「イカイノ物語」の余韻がまだ覚めやらぬ1999年9月22日、マルセさんはがんセンターの主治医からこれ以上の治療は難しいと告げられました。それから一週間後の水曜日の午後の大阪梅田のホテルの喫茶店でのことです。マルセさんは「いよいよゴールが見えてきたようです」と切り出しました。マルセさんの言葉には深い意味があることが多いので、その言葉が何を意味するのか私は彼の目を見ながら考えました。沈黙を破って「もうこれ以上治療はできないと言われたんですよ」と諦めと怒りを込めた言葉をマルセさんは一言一言確かめるように呟いて、主治医が書いた説明のための絵とメモを見せてくれました。

マルセさんのBRP療法(免疫監視療法)を受けてみたいという言葉をきっかけに、BRP療法のこと以外にも色々な方法があり、まだまだ治療はできることを一所懸命に話しました。芸人として生きがい療法を実践しているマルセさんに、奇跡的な自然治癒力を発揮してもらうために禁煙を強くすすめました。静かに聴いていたマルセさんは落ち着いた声で「私が知りたいのは、あとどれくらいかということです」と鋭い澄んだ目で問いつめました。私は「それが判るのは神か、よほどの薮医者でしょう。とりあえず一年一年を目標にしてやっていきましょう」と答えるのが精一杯でした。

その後11月5日と26日にがんセンターの主治医からこれ以上治療の方法はないとだめ押しのような説明を受けたマルセさんは、手紙に「半年ということです。ちょっとショックでした。一年はあるかと思っていたのが甘かったようです」という言葉と、BRP療法を積極的に受けたいこと、そのためにデータを送ること、月末の京都公演のあとBRP療法を受けるために福山へ来ることなどが、いつもの力強い字で書いてありました。

12月9日、マルセさんがBRP療法を受けるために来院しました。私は大学の同期生で日本でも5指に入る肝臓ガン治療の専門家I医師に前もってデータを検討してもらいました。嬉しいことに治療の可能性があるとの返事でしたので、福山からの帰りのマルセさんに岡山で直接I医師に会ってもらいました。「最期まで諦めずに治療をしましょう。まだまだ治療はできますよ」というI医師の自信と熱意に動かされ、マルセさんは岡山で治療を受けることになりました。

BRP療法を開始し、肝臓の治療法が決まったマルセさんは新作「春雷」を書きあげ、2000年2月にその公演が終わるとすぐに岡山での最初の治療を受けました。その後もスケジュールの合間を縫って治療を受けながら、各地で公演を続け、新作の執筆、「イカイノ物語」再演の準備と再び芸人魂を発揮していたマルセさんでしたが、岡山での4回目の治療も大成功のうちに終わり、退院を目前にしていた2001年1月22日に突然の死が訪れ、奇跡は起きませんでした。

その日は月曜日でした。朝の診療中の私にI医師からかかって来た電話は、夢想だにしなかったマルセさんの急変を知らせるものでした。広島の池田さんにご家族への連絡を頼み、すぐに新幹線に飛び乗って岡山の病院に向かいました。それはマルセさんと過ごした最後の永い永い一日でした。ICUでマルセさんの治療にあたっていた医師たちを叱咤激励してマルセさんをなんとか連れ戻そうとしました。一時的に規則正しい心臓の動きを取り戻してくれたのはマルセさんからのお叱りのようでもあり「さようなら」のようでもありました。

自宅で最愛の家族に囲まれて迎える自分の最期の姿を思い描いていたマルセさんの希望をかなえるために、狛江の自宅近くに良い医者を見つけて本人の意志を伝え、定期的に肝臓の注射をしてもらっていましたが、筋書き通りには行きませんでした。マルセさんの「死は散文的にやってくる」という言葉は、このような死をも予感していたのかも知れません。びんご・生と死を考える会のために書いてくれた「死をも含めて人生」というマルセさんの言葉は、「生きる」ということの意味を今も私たちに問いかけています。

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[「Be動詞への自信」中学生のみなさんへ]
マルセ太郎(週間「金曜日」1996年7月19日)

僕は1933年生まれですから、中学生になったのは敗戦の翌年でした。生まれ育ったのは大阪です。戦争による焼け跡の中、食べ物に不自由していた頃でしたが、それでも中学生になった喜びがありました。電車で通学するため、定期券を持つのがえらく嬉しかったのを覚えています。科目別に先生が変わることや、小学校ではクラスを、一組、二組と言っていたのが、A組、B組という、つまらないことまで、何か未知の世界が世界が広がっていくように思えたものです。中でも英語が習えることに、わくわくする期待感がありました。しかしこの期待感はすぐに挫折しました。やはり難しかったのです。

僕らは単純に、英語の単語さえ覚えれば、それをそのまま日本語とおきかえて、英語ができるものと思いこんでいたのです。君たちもそうでしたか。ところが知っての通り、そうはいきません。主語が変わると、アムとか、アーとか、イズという、つまり「Be動詞」が変化することや、他にもややこしいことが多くでてきます。どうして、アムならアムだけで統一しないのか。僕たちを"勉強"させるため、わざと面倒にしているのではないかと思ったほどです。

Be動詞というのは何なのでしょう。僕らは英文のamの下に、「デス」と仮名をふって日本語に訳していました。現在(いま)でも「デス」と教えられているのですか。大人になってから考えました。あれを「デス」と教えてはいけないのです。大切なことは、Be動詞を、日本語にはないのだということを、まず教えるべきです。

ではBe動詞とは何か。「存在」なのです。アイアム。私は存在している、ということです。有名なシェイクスピアの劇、「ハムレット」に出てくる台詞があります。"To be or not to be"生きるべきか、死ぬべきか。"to be"で、生きることを意味しています。つまり存在することが生きることなのです。

話しを急転回します。よくみなさんは、自信をもて、と教えられていませんか。ことにスポーツの世界では、指導者たちが、自信ということを強調します。先生も親も、上に立つ人は、何かというと自信をもてとあおります。もしかしてみなさんも、自信をもつことが正しいものと、受け入れているのではありませんか。自信て何でしょう。僕は嫌いです。むしろ害悪だとさえ思っています。なぜなら、それは他と比較する上で成り立っているからです。彼には負けない自信がある。この中では一番になる自信があるとか、すべて競争の論理で成り立っています。こういう自信は、他を差別する優越感にひたり、また逆に、理由のない劣等感に落ちこんだりするのが常です。

それでは自信は必要ないのか。そんなことはありません。生きるため大いに必要なことです。そこで言いたいことは、「Be動詞」への自信をもっということです。アイアム。アムヘの自信です。私は存在しているのだ、ということの自信です。ユーアー。あなたは存在している。ヒーイズ。彼は存在している。ここに優劣の比較はありません。負けない自信なんて、くそ食らえです。フランス映画『仕立屋の恋』の中で、アパート中の住人から嫌われている主人公に、刑事が訊きます。「お前はなんだって、みんなから嫌われているんだ」主人公は答えます。「わたしも、あの人たちが嫌いです。」これがBe動詞への自信です。

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「奇跡は奇跡的には起きない」西大寺・広島公演を前に
マルセ中毒の会 広島・福山病棟 数野 博 2000年11月18日

マルセさんの肝臓癌の手術を行い、その後の繰り返し起きる再発に対して治療してきたがんセンターは、マルセさんにこれ以上の治療は不可能であり余命6ケ月と宣告した。その一週間後の昨年9月29日(水)の午後、大阪梅田のホテルの喫茶店で差し向かいに座ったマルセさんは、いつもの生真面目な顔で「いよいよゴールが見えてきたようです」と切り出した。マルセさんの言葉には深い意味があることが多いので、その言葉が何を意味するのか彼の目を見ながら考えた。「もうこれ以上治療はできない、あと半年だろうと言われたんですよ」と諦めと怒りを込めた言葉だった。主治医が書いた説明のための絵とメモを見せてくれた。それを見て驚いた。お世辞にも上手とは言えない絵と納得できない治療不能の理由が走り書きしてあった。これが日本でもトップレベルと言われる病院の医師が書いたものとはとても信じられなかった。それが一人の人間の人生を決めるかも知れないのだ。

マルセさんの免疫療法を受けてみたいと言う言葉をきっかけに、まだまだ治療はできると思われるということ、病院での治療以外にも沢山の方法があること、免疫療法のことなどを話した。がんも結局は自分で治す病気であり、生きがい療法をまさに実践しているマルセさんは、何かのきっかけで奇跡的な自然治癒力を発揮できるはずなので、まずタバコをやめるように話した。静かに聴いていた彼は「私が知りたいのは、あとどれくらいかということです」と言った。私は「それが分かるのは神か、よほどの薮医者でしょう。とりあえず一年一年を目標にしてやっていきましょう」と応えた。

あらゆる手をつくして一年が過ぎた。マルセ太郎はこのままゴールを走り抜けるのか、この一年も私たちに人間の生き方を教えてくれるのか。福山の薮医者は奇跡の気配を感じつつある。今まさに皆でマルセ太郎を応援する時です。

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マルセ太郎・入門篇
★今月の顔★『マルセ太郎さん』「シナブロ」2000年12月号

「君、何もわかっていないな。いかん、もっと勉強して出なおして来い!」マルセさんの取材開始後の出来事だった。マルセさんに「喝」を入れてもらってから10分と経たずに中断となってしまった。私はがっくりとはしなかった。熱意でマルセさんから取材のゴーサインをいただく以外に何も準備がなかったのだ。私がある一人のマルセファンとしてシナブロの読者にも紹介する目的をどうしても達成させたいだけだった。聞き手として、ライターとして、「在日」と呼ばれる人たちの事、私が日本の近代においての歴史を全く知らな過ぎている。これは、そう言われても当たり前な状態であったからだ。役不足とはいえ、今月の顔としてマルセさんにシナブロは逢いたかった。マルセ太郎さん(以下マルセさん)本人が芸人生活を通していろいろなことを綴った本がある。講談社の「芸人魂」だ。その本は残念ながらハングルでは訳されていないのだが、その本から抜粋もしながらマルセさんのことを書こう。

●『きっかけ』

私がマルセさんを知ったのは、今から6年前の夏、アルプスの麓の山村だった。ここで娘の梨花さんを通じてマルセさんのことを知ったのだった。前衛活動をしている芸術家が夏の間、その山村に入って独自の制作を発表する場としてアートキャンプがあった。主宰は舞踏家の田中泯さんだった。現在はアートキャンプという名のイベントは終わってしまったが、泯さんのワークショップは夏に開催されている。私はこのイベントにボランティアスタッフとして参加したのがきっかけだった。娘の梨花さんもそこでボランティアをしていて、彼女と一緒にスタッフワークをした以来の友人である。娘さんの名前は韓国の「梨花女子大学」の名にあやかってつけられたのだという。それと同時に「在日韓国人」だということを同時に聞いたのだ。そして、彼女の父であるマルセ太郎さんの芸名はフランスのパントマイマ−「マルセル・マルソー」から取ったものだということも彼女から聞いた。   マルセさんの舞台を観たのもおなじ夏の「アートキャンプ」での舞台だった。マルセ太郎さん(以下マルセさん)は独演をするとおどろくべきパワーを更に発揮している。彼を前にした人だれもが、話に没頭し聞き入ってしまうだけの独特の誘導力を持っているからだ。マルセさんは名作映画をたったひとりで繰りひろげる「ボードビリアン」として有名だ。これは独特な話芸でジャンル分けが難しい。私はここが前衛的な所だと感じる。

●「スクリーンのない映画館」

マルセさんの舞台は面白くて為になり喜怒哀楽が一つの舞台で一緒に感じ取れる、めずらしい舞台だ。中でも「スクリーンのない映画館」といわれる舞台がそうだ。切ない場面で心現れ、怒りと悲しみがこみあがる話に納得し、時には滑稽な場面で笑いがこだまする。互いに笑える喜びがいつしか一体となって一層面白さを盛り上げる。マルセさんの芸人としてのヒストリーは、パントマイムで出発し、お笑いトリオを結成、その後形態模写を芸にしたりし、今までの活動に至るまで46年の長い芸暦だ。マルセさんに「いままでもっとも印象に残った出来事は?」と質問してみた。「泥の川の初演」と、すぐに返事が返ってきた。この泥の川の初演とは、今から16年程前の出来事だ。前にも触れた、舞踏家・田中泯さんの東京の拠点「プランB」での事。ライブスペース「プランB」では月に1度のペースで相変わらずの独演会をしていたマルセさんは、思い付くまま「出たとこ勝負」でこなしていた。客は増えない。ついにネタが尽きて、ある失望した映画の批判をアクション混じりで演じたらこれが受けた。続けて、その批判の比較で小栗康平の『泥の川』を肯定的に演じた。その結果かなり反応がよかった。その後、数日たって一通の電報がが届いた。永さんからのものだった。マルセさんは「感激、ただ感激。永六輔」とだけ書いてある手書きの文章を何度も飽きることなくくりかえし読んだそうだ。その喜びの出来事についてのことだった。『はっきり書いておこう、それから僕は芸で食えるようになったのだ。』(芸人魂より)『スクリーンのない映画館』という名称の名付け親である 永六輔さん(注1)がこの泥の川初演の舞台を観いた一人だった。そして、その後の永さんの呼び掛けで行われた「ジャン・ジャン」公演は超満員のお客さんの前で実現したそうだ。そして、一気に芸が拡がり今のマルセさんがいるといっても過言ではない。その元のきっかけが泥の川初演だったことだ。そんなマルセさんの演題は「泥の川」「生きる」「息子」などの日本の映画を中心に独特な視点で取り上げられている。以前に観たことのある映画もマルセさんの映画館ではまたひと味ちがったスクリーンに映される。

●今後のマルセさん

サインに「自分を演じることが生きること」と書くマルセさんは、現在来年の春にマルセカンパニーで再演をする「イカイノ物語」に集中している。マルセさんが生まれ育った猪飼野地区(現在の大阪・中川)を舞台に「在日」の共同体家族を描いた喜劇にしており、マルセさん本人の芸の集大成である舞台だ。また、年内には写真集も発売予定だ。来春までの間にも独演もスケジュールもいくつかあり、日本中を駆け回っている。「今年の桜はみれないかもしれない。」と病院の先生にいわれた人とは思えない程だ。「ガン」の摘出手術をくり返しているが、ものすごいパワーを舞台で感じる。実際、「スクリーンのない映画館」以外も映画出演、講演会や主からプロデュースする喜劇舞台などを積極的に活動している。芸人というよりは憲法や哲学をテーマに講演会するなど文化人の域でも活躍している。

●『日本で学んで欲しいこと』 

2年位前にマルセさんは韓国公演をしている。「ソウル国際演劇際98」でのことだ。現地での客入りは超満員で大成功だった。この時マルセさんの両親の生まれ故郷でもあり親戚が今も住む、済州島へも訪問した。その様子は日本のテレビでも報道されたため、私もブラウン管から見ることが出来た。その2年前に訪問した時に感じたことは、アジアの奥ゆかしい美しい姿があったという。電車に乗れば、老人の席をゆずる若者。日本には無くなってしまった素晴らしいところを目にできたという。が、今年になって個人的に韓国へ行った際、若い男女が人前で平気でいちゃいちゃしていている姿を見てがっかりしたという。その2年前にみた美しい姿がなくなった気がしたという。日韓交流の自由化などと言われているが、文化というものは商売からはいってくる。マルセさんは今の日本に留学している韓国人に残したいメッセージがあるという。今の日本をそのまま真似してはいかん。いろいろな物がはいってきては一人が右を向けば、大衆が右を向く。本質を知らない人達が多い。その大半の人は歴史を学ぶことがない。希望がない。その点、韓国は希望がある。すぐにではないが、革新的といわれている金大中大統領がいて、ゆっくりと希望の光りが見えている。だから、『留学経験を通じて、日本人の恥を知り母国に帰ってそれはするな。』経済を学ぶまえにそうして欲しい。と切に願っているマルセさんがいた。シナブロの言葉の由来と同じ、ゆっくりすこしずつ『よくなっていく韓国』に日本からエールを送る人がここにいる。

ボードビリアン/マルセ太郎

1933年 大阪生まれ。
1956年 パントマイムでデビュー
1980年 猿の形態模写芸で話題となる。
1984年 『スクリーンのない映画館』発表。
1996年 マルセカンパニーにて「花咲く家の物語」発表
1998年 「ソウル国際演劇際98」にて特別公演。
1999年 『イカイノ物語』発表
2000年 その他マルセ太郎プロデュース喜劇など多数発表。

(注1)永 六輔(えい ろくすけ):1933年 東京生まれ。作家、作詩家、エッセイスト。大ヒット曲、坂元九が歌った「上を向いて歩こう」の作詩でも有名。著書多数。ベストセラー『大往生』など。

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一病息災
マルセ太郎さん(芸人)の場合
NHKきょうの健康(2000年10月号132ー134ページ)

6年前、「肝臓がん」を告知され、手術。9度も再発に見舞われながら、意欲的に公演活動を続けてきたマルセ太郎さん。「がんに侵されても、これまでの生き方は変わらない。魅力的でカッコよくありたいーそう思う自分自身を演じ続けるだけ」

まるせ・たろう●1933年、大阪に生まれる。56年、日劇ミュージックホールにてパントマイムでデビュー、その後、浅草演芸場、全国各地のキャバレー、ストリップ劇場などに、動物形態模写やコントで出演。80年にはサルの形態模写で人気を博す。84年、映画全編を丸ごと語って演じる「映画再現法」というジャンルを開拓、85年に渋谷ジァン・ジァンで「スクリーンのない映画館」を演じ注目を集める。93年より、喜劇の脚本・演出も手掛け、全国各地で公演活動を展開。著書に「芸人魂」「奇病の人」(講談社)。

肝臓がんと告知され
手術をすれば治ると思い込んでいた

「泥の河」「生きる」など1本の映画のすべてを1人で語り尽くす『スクリーンのない映画館』で知られるマルセ太郎さん。その芸と人柄はファンを魅了し、熱烈な「マルセ病患者」(自称)のファンも多い。マルセさんに肝臓がんが見つかったのは、94年の12月。肋骨の内側に起こった激痛がきっかけだった。医師をしている甥が勤務するがん専門病院を訪ねて診てもらうと、激痛の原因は「胆石」と判明。ほかにも結石がないか検査したところ、思いがけず、「肝臓がん」と告知されたのである。

「肝臓に腫瘍のような影があるんや』『腫瘍いうたら、がんやいうことか』『そうや』『……』。甥からあまりあっさり告知されたんで、大したことはないんだろうと。肝臓は自覚症状が起きにくいから、がんが見つかったときには手遅れってことが多いらしい。僕の場合、胆石が肝臓がんを知らせてくれた。ツイてると思いましたよ」肝臓の右葉という部分にできていた腫瘍は、3cm大。C型肝炎ウイルスが原因の慢性肝炎によるものだった。「今なら、手術が可能」と主治医は説明した。「そう聞いて、手術をすれば治ると、単純に思い込んでいたんですよ」

95年1月、手術で肝臓の右葉を切除。手術後、病院の書庫に並んでいたがんに関する本をたまたま読んだ。「C型肝炎ウイルスによる肝臓がんは、手術後70%の高率で再発。術後5年生存率は50%」と書いてあり、マルセさんは愕然とする。「何かだまされたような気持だよね。しかし、統計上の数字がそのまま自分にあてはまるとは限らない。そう自分に都合よく解釈しようとしたんですがね…」

6月、退院後最初の検査の結果、あっさり再発を告げられた。

がんは自分とは別の生命体
がんと共生しているんですよ

最初の再発で見つかったのは、1cm大の腫瘍が2か所。2週間入院して、『エタノール注入療法』という治療を受ける。「主治医の説明でわかったのは、再発なんて驚くに当たらず、将来何度も再発するかもしれないってこと。治療は『もぐら叩きみたいなもの』なんだそうですよ」

その年の秋、再び再発。1cm大のものが4か所発見され、今度は『肝動脈塞栓術』という治療が行われた。エタノール注入療法に比べて、人院期間が短くてすむ。その後も再発を繰り返し、そのつど人院して肝動脈塞栓術を受けた。手術後約5年の間に9度再発に見舞われたのである。昨年10月、9度目の再発の再に、「肝動脈塞栓術はもうできない」と主治医に告げられた。治療を繰り返すうちに、カテーテル(肝動脈に送り込む細い管)を通す太ももの付け根の動脈が細くなり、治療が難しいという。「『もはや治療は限界ということか』『そうです』『ほうっておいたら、どのくらいもつんだ』『6か月はもちます』…と。来年の花見はできないだろう、と思いましたね」

そんな折、マルセさんのファンで開業医をしている人が、関西では屈指といわれる肝動脈塞栓術の名医を紹介してくれた。その医師のもとを訪ねて詳しい検査を受けたところ、「肝動脈塞栓術は、まだ可能」との診断。今年4月、5か所あった腫瘍の治療を受けた。「再発を繰り返して思うのは、がんは自分とは別の生命体なんですよ。がんと共生しているという実感ですね。今後再発しないのが一番いいけれど、せめて再発が間遠になればと思う。その分、少しでも寿命が延びるからありがたい」

死を意識するようになって思うのは
それまでの人生観が大事だってこと

作務衣姿で舞台に立ち、『スクリーンのない映画館』の独演会を続けて16年。7年前からは、生や死、老いなどをテーマにした喜劇の脚本を書き、自ら演出・出演。がんの再発・治療を繰り返しながら、マルセさんの舞台へのエネルギーはまったく衰えない。

「『スクリーンのない映画館』で世に知られるようになってから、この16年間、イヤな仕事はまったくないんですよ。『来てほしい』って呼ばれて舞台に立つと、お客さんがとても喜んでくれる。すごく嬉しいですね」マルセさんは自分のがん体験もネタにし、舞台で巧みに語る。その「がんレポート」は観客を笑わせ、元気も与えているようだ。「死を意識するようになって感じるのは、それまでの人生観が大事ってことだね。僕はね、名画の主人公のごとく生きたいと思ってきた。つまり、成功者でなくても、魅力的でありたい。そして、観客を笑わせ、感動させる芸をしたいと。そうした人生観を持ってやってきたから、死が間近にせまっても、たじろがない。これまでの生き方を変えようとも考えない。僕白身であることを演じ続けるだけだね」

チャップリンの映画に話が及んだ。「『ライムライト』の中で、チャップリン抄する年老いたカルベーロが言うんです。『瞬間の命を生きればいいんだ。時にはすばらしい瞬間がある』ってね」

抗がん剤の影響で、「体は少々シンドイ」というマルセさんだが、舞台に立った瞬間、元気になり、声の張りもよくなって、体が勝手に動くという。「2時間の舞台で、お客さんをどのくらい笑わせ、どのくらい泣かせるか−。毎回毎回そういう気持。自分で言うのもナンですが、僕はお客さんにすごくモテるの。今、最高に幸せですよ」

*エタノール注入療法
超音波でがんの位置を碓認しながら、体外からがんに針を刺して、エタノール(エチルアルコール)を注人し、がん細胞を固まらせて壊死させる治療法。

*肝動脈塞栓術
太ももの付け根の動脈からカテーテルを入れて、がん細胞を養っている肝動脈の血管まで、送り込み、小さなスポンジ片で栓をして、血流を止め、がん細胞を壊死させる治療法。

取材・文/村田津子 撮影/徳江彰彦

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本当のインテリとは
マルセ太郎が語る「マルセ太郎・記憶は弱者にあり」(明石書店)より

こないだあるところで講演したんですがね、日本人が偉そうにしたところで、日本はしょせん民主国家じゃないですね。民主国家だという人がいたなら、ぼくはその人に聞きたいですね。「代用監獄をなぜなくせないんだ」ってね。世の中でもっとも差別される犯罪者の人権が放置されてるというのは、大衆はそれでいいと思ってるってことですよ。「あいつら、少々痛めつけられてもいいじゃん。悪いヤツらだもん」って。民主主義ってそんなもんじゃないよね。民主主義というと、行儀作法くらいにしか理解していないんです。曽野綾子が和歌山の例の事件をとりあげて、「ああいうのが出てくるから国民総背番号制にしろ」って、産経新聞でいってるんだよ。イリテリのかけらもないね。

オランダの新聞記者が日本へ来てなににおどろいたか。日本のインテリが体制寄りだということですよ。体制側の主張を宣伝したりするのは、役人の仕事なんです。同じ線で国民を説得しようとするのは、これインテリじゃないんです。体制側にたいしてちゃちゃを入れるのが新聞記者なんですよ。広島の中学校の地理の授業で朝鮮半島をとりあげた先生が、「ハングルで自分の名前を書いてみよう」といったのを、産経新聞が「偏向教育だ」といってとりあげ、いま文部省が調査中ですよ。アメリカ大陸の地理のとき、「ローマ字で自分の名前を書いてみよう……」、これ「偏向教育だ」っていいますか。

上坂冬子なんて、「朝鮮人慰安婦はいなかった。あのときは朝鮮人はいなかった。日本人だった。国籍は日本人だった」。これがインテリなんです。こんなこと、ヨーロッパでは絶対にないでしょ。恥ずかしいよ。思想のちがいでは論戦は大いにありうる。こんなの、詭弁というにも価しないよ。「あのころ朝鮮人っていわなかったよね、みんな日本人、天皇の赤子だった」ってんです。そうなんですよ、実際にぼくらも戦争中にそういうふうに教わったんです。「おまえたちも日本人だ」って。意見のちがいじゃない。こんな発言は許せないよ。兵隊にとられた朝鮮人はうんといる。うちのおじさんなんか、軍属にとられて死んだよ。ところが、遺族年金は出ない。「おまえら朝鮮人だからダメ、これは日本人だけ」だって…・:。平気でこういうことをいえるんですよ。

日本のインテリは、本当の意味のインテリじゃないですよ。大学出て役に立たない知識をもってるのをインテリっていってんですよ。戦争に負けたときぼくらは小学校六年生で、中学へ入ってすぐに総合雑誌を読んでましたよ。三木清とか羽七五郎とかをどんどん読んでいきましたね。それが、いまでは消えちゃってるわけですね。継承しないの。あるいは、それをより発展させるとか、まったくないわけですね。大学がね……、学生とか教授の問題ではなくて、すべてがね。いま、京大の周辺の書店で小林よしのりの『戦争論』がものすごく売れてるんですよ。何万冊と。日本はどうなってんの?これではアジアでバカにされるよ。

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「人格者」と「偉い人」
マルセ太郎が語る「マルセ太郎・記憶は弱者にあり」(明石書店)より

韓国でぼくは十回地下鉄に乗りましたが、一回も立ったことなかったですよ。ドアーが開くとポーンと若者が立つ。しぶしぶじゃなくて、爽やかですよ。若者で斜めに座ってるようなのはいないですよ。日本の若者はひどいですね。こんなことをいうと、右翼が喜ぶんですがね。「そうなんだよ。みんな徴兵して軍事教練やらにゃあかん」とか、そっちのほうへもっていかれると困るんですがね。でもね、若い人たちを責められないですよ。明かりがみえないからですよ。決まっちゃってんだもん。大学に入ったときに決まってるわけでしょ?どのレベルの大学に入ったかで。それじゃあ、ああなっちゃうよ。貧しかろうがなんだろうが、必要なのは希望ってことですよ。

三木清の受け売りなんですが、日本の教育が大いなるまちがいをしたと思うのは、ほとんどの日本人をして「希望」ということと「欲望」ということをごっちゃにさせてしまった。「自分は社長になりたい、スターになりたい、大臣になりたい」ってのは欲望だといってるんですよ。欲望ってのをけっして否定はしないですよ。人間が生きていくための欲望、これはだれにもあるんだから、そのこと自体は否定しないんだよ。しかし、ごっちゃになってるというんです。もっといえば、「成功」もそうなんですよ。「成功することが幸福だと思ってるから、自分が成功しなかったことをもって、『ああ、自分は不幸だ』と思ってる度し難い人間ども」と三木は書いてるね。こんなのは救いようがないといってるんです。「日本くらい幸福論が学問の世界にないのは珍しい」と、昭和14年に三木はいってるんですよ。

あれから60年、ちっとも変わっていない。「幸福とはなにか?」、映画にはさかんに出てきますよ。チャップリンの「ライムライト」では、「幸福のためにたたかうのは美しいことだよ」「幸福ってなんなの」「こういう話があるんだ。子どものころね、家はとっても貧しかった。あるときおれは親父に『おもちゃ買ってくれ』っていったんだよ。そうしたら、親父はいったよ。『ここが最高のおもちゃだ』って」。つまり、イマジネーションですよ。「想像力」ってことばほど、日本に定着しなかったことばはないんですよね。架空のことを思い浮かべることが想像力じゃないんですね。想像力は芸術を創る源であるし、人間が幸福になるための原点なんですね。想像力がなかったらどうなるだろうか。収入・地位・名誉…、「ああ、あの人は偉い人なんだ」ってなるんですよ。

日本人に最も欠けてるのは、人格者を尊敬しないってことですよ。ぼくはお客さんにいうんですよ。「自分の周りのだれかをあなたが尊敬しているとしたら、あなた自身がいま幸福なんです」って。どうすれば人格者を尊敬できるようになるか。悲しいことなんですが、矛盾がないとダメなんですね。どういうことかといえばね、インド人、努力してもダメですよね。生まれた階級が生涯の階級です。日本みたいに、たとえば松下幸之助のような人生は送れないわけです。だから、インド人は地位を尊敬しないんですよ。生まれ方がちがうだけなんです。そこで、インド人は人格を尊敬するんですよ。インドにはいろんなことばがあるんです。「シャンティーな人だ」というのがありますが、あのインドの「ガンジス河のような広い心をもった人」という意味で、そういう人を本当に尊敬するんですよ。努力しても偉くなれないんだから、偉い人を尊敬しない。

日本は努力すれば偉い人になれる。だから、人格なんか屁でもないわけです。人格のなさを恥じて腹を切る人間はいないでしょ。ぼくら子どものころに、武士道、武士道って教育され、「人格が辱しめられた、あるいは恥ずかしいと思ったときには腹を切る」って教えられたけど、その教養、日本人のなかに生きていないんだよね。みんな、「秘書が…」とか、なんだかんだいうじゃない?あんな分かりきった嘘を、みんないってるでしょ。度し難い恥知らずですよ。いまや、われわれ芸人が「秘書が…、なんとかが…」ってのをネタにしても、受けもしないんです。目新しくもなにもないんですよ。何百という汚職事件で、はじめからバーンと「悪かった」と認めたのは、たったの一人もいないんですよ。偉い人に教養人はいないんですよ。最低の教養が指導者のなかにない。こういうこといってたら、お客の一人が、「おまえは日本人ぜんぶが悪いってのか」っていうわけ。いくらぼくだって、ぜんぶ悪いとはいわないんであって、「そのくらいのこといわないとインパクトがないじゃない」って応じたんですよ。そしたら、ある人がね、「いや、ぜんぶ悪いんだ」っていったんだよね。聞いたらね、「いまマルセさんがいったようなことを多少でも思ってる人は、ここへ絶対に来れない」ってんですよ。それから、「人間はぜんぶ悪いんだ」ってんですよ。「あとはバレてないだけであって、本当はぜんぶ犯罪者、犯罪者でなければここへ来れない」ってんですよ。

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「マルセ太郎の幸福論」

「幸せ」という言葉はあります、確かに。皆さんが年賀状に書きます「ご家族のお幸せを祈ります」、みんな書きます「お幸せに」。しかし、その時の「お幸せ」っていうのはつまり、何事も無きゃいいがという願いです。そうでしょ?病気をしたり、交通事故にあったり、そういうことが無きゃいい、今のまま、それを願いますというのが、日本人のかわされる幸福なんですね。それは消極的でありまして、決して積極的ではありません。何ゆえに生きるのか?幸福とは何かという積極性が欠けている。

三木清は、はっきり言っています「内的幸福は存在しない」、今のが内的幸福。自分が思っている、オレは幸福だよと思っているんだと、それが内的幸福。存在しない。そして「真の幸福というのは、おのずから表現されるものだ」とこう言ってんです。その顔に、その物に、その行いの中に、おのずから表現される。そして「鳥が鳴くごとく」、こう言っているんです。

そして幸福というのは、必ずしも持続するものではありません。多くの日本人は、三木清も言っておりますが、成功することが幸福だと考えるようになった。これが不幸の始まり、成功は欲望です。

「幸福は個性的である」。個性って、どういうことなのか!みんな一人一人顔が違うから個性的?そんなバカなこと言ってません。そんなの、あたりまえのことです。実に、あっさりと簡単に言っています。「個性的とは、流行を追わないことだ」。

日本人は、経済的な成功が幸福だという、大きな勘違いがある。景気が良ければ幸福で、悪ければ不幸だという考え方ー。僕は、そういう生き方は最も俗っぽい、つまらん生き方だと思う。成功を望むことは否定しないが、それだけを幸福だと思うのは想像力の欠乏です。

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マルセカンパニーより「春雷」
マルセ太郎喜劇プロデュースVOL.10/シアターX(カイ)提携公演

作・演出 マルセ太郎
出演 北村晶子 斉藤昌子 矢野陽子 松山薫 維田修二 永井寛考 マルセ太郎
公演日時 2000年2月8日(火)〜13日(日)
開演時間 火〜金:19時 土:14時/19時 日曜日:14時
会場 シアターX 電話03-5624-1181
料金 前売り:3800円/当日4000円(全席指定)

マルセ太郎喜劇プロデュースについて
1993年より高度な喜劇を目指してマルセ太郎を中心に発足したプロジェクトは、今回が10回目となります。それぞれの作品が高い評価を得ましたが、節目となる今回は、4人が共同経営する一軒の家を舞台にした新作に挑みます。マルセ太郎の死生観が、その女性たちを通して、より深い人間喜劇となります。

「台本を書くに当たって」マルセ太郎

こんな経験はないだろうか。
その日は外は大雪か嵐で、とても外へは出られる状態ではない。そんなとき家の中にいて、家族が、または親しい友人でもいい、ひとかたまりになって、酒でも飲みながらとりとめのない話に興じている。幸い誰も仕事はなく、外へ出なくてはならない用もないので、そうしていられる。こんなときの、うきうきする楽しさったらない。できることなら、一生そうしていたいとさえ思うくらいである。おかしいのは、これが、外はいい天気ではダメなのである。それだとすぐに、外とつながってしまう。いつもの日常が襲ってくる。ないはずの用もつくりだして、人は働き始めるだろう。あくまで外と断絶していなくてはならない。そこが孤島であるかのように。そこで「春雷」とタイトルをつけた。

郊外の一軒の家に、もう七十にもなる女たち三人、彼女たちの世話をしている婚期を過ぎた女と四人がすんでいる。そこを訪れた男たち三人。春のある日、外は土砂降り。ときどき雷鳴がとどろく。今は昔と、語り出す彼女たちの恋物語、果ては死生観に至る会話を、喜劇にしたいと考えている。

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元気と笑い 舞台から発信 ガンと“共生”マルセ太郎さん
中日新聞 夕刊 1999年7月15日(木)

<ファンが裏方支える 在日韓国人2世 自伝的な作品>
 「生きる元気をもらいたい」−。肝臓がんと闘いながら多彩な公演活動を続ける芸人、マルセ太郎さん(65)の作・演出による喜劇「イカイノ物語」が八月四日、名古屋市で上演される。マルセさんの芸にほれ、人柄に魅了された東海地方の常連ファンが上演実行委員会をつくり、名古屋で三回目となる公演の準備を進めている。

<作・演出の喜劇 名古屋で来月上演>
 マルセさんは「泥の河」や「生きる」など、映画を丸ごと語る「スクリーンのない映画館」という話芸で知られる。作務衣(さむえ)姿で身ぶり手ぶりを交えた二時間余の舞台は、年齢を感じさせない迫力で「映画より感動した」という観客も。六年前からは芝居づくりにも取り組み、ファンの要望にこたえ、一昨年六月に名古屋で「花咲く家の物語」を初公演、昨年六月にも再演された。
 マルセさんは四年前に肝臓がんを手術、再発を繰り返しているが「僕はがんと闘っているんじゃない。がんと共生してるんだ」といい、舞台の近況報告では、がん告知や手術の様子などを面白おかしく話し、病気を楽しんでさえいるようだ。 
 今回の「イカイノ物語」は、在日韓国人二世として育ったマルセさんの自伝的作品。生まれ育った大阪・猪飼野(現・生野区中川)を舞台に、たくましく生きる家族と周囲との交流を描く。これまでも老人、障害者をテーマにしてきたが、お涙ちょうだいではなく、“人間喜劇”にこだわるマルセさんは「僕の笑いの集大成。ホームドラマに徹して在日のテーマ性を浮かび上がらせたい」と意気込んでいる。
 東海地方の会社員や先生、学生ら常連ファンが上演実行委員会をつくり、手弁当でチケットの販売や公演会場の手配、チラシ・ポスターの作製など裏方仕事を引き受ける。実行委メンバーの一人で、近く「マルセ太郎−記憶は弱者にあり」(仮題)を出版する名古屋市立大教授の森正さん(57)は「マルセさんの政治・社会への辛口の視点にいつも感心する。学生にも見てほしい」と話す。 
 名古屋市の三十代の男性ファンは「僕の父親も、がん再発を繰り返している。同年代のマルセさんが前向きに舞台の第一線で活躍しているのを見ると元気づけられる」と話す。
 「イカイノ物語」は八月四日午後七時から、名古屋市中区金山の同市民会館中ホールで。チケットは前売り四千円。問い合わせは上演実行委員会=電090(2772)7117=へ。

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「猪飼野物語」を書く前に
98.12.22 マルセ太郎

 九三年より、年に一本の割合で芝居を書き上演してきている。そんな流れのうちに、僕が生まれ育った、大阪の猪飼野に思いが至った。

 猪飼野は、いうところの「在日」が最も多く住む街である。猪飼野という地名はいまはない。"中川"なんて味っ気のない名前に変更されている。

 この猪飼野を喜劇にと考えているのだが、一口に「在日」をテーマにするといっても、そこには問題が膨大にある。どこから手をつけていいのか、まだ一行も書いていない。すでに公演予定は、東京芸術劇場、日程も来年(今年)七月と決まっているのである。

 そんなとき、今年(昨年)の十月、六十四歳になって初めての母国訪問ということが重なった。「ソウル国際演劇祭」に、独演会をもって参加したのだ。そして、亡き父母の故里である済州島にも行ってきた。

 九日間の韓国滞在中、僕の潜在していた民族の血が沸き立ち、何としても"猪飼野 "を成功させたいという念が強まった。気恥ずかしい言い方になるが、この芝居が僕の芸の集大成になるだろうと思っている。

 劇作の切り口に思い悩んでいるとき、長男がいいアドバイスをしてくれた。
「テッちゃんのオジチャンを主役にすればいいじゃないか」
テッちゃんというのは、四歳下になる僕の弟のことである。
 ちょっと珍しい人物である。

 なるほど。それでふっ切れた。これまで漠然と、僕自身をモデルにした人物を主役にと考えていた。まさに燈台もと暗しである。この弟を中心に展開するホームドラマにすればいいのだ。喜劇にもなり、「在日」のテーマ性も十分に、芝居の背景として浮かび上がってくるだろう。

 猪飼野が抱えている問題の、あれもこれもと欲張ってては前に進まない。ホームドラマに徹することを、いま心に決めている。

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「僕は多数の日本人に絶望しかけている」
マルセ太郎(ボードビリアン)
『高齢期とくらし』より。原文は『東京革新懇ニュース』

 あえて断定的に言うが、僕は多数の日本人にほとんど絶望しかけている。これほどものを考えようとしない、倫理観のない民族も珍しいのではないかと思う。やはりお上の国であり、村社会なのである。体制に従順なのは、昔から少しも変わっていない。拒絶、抵抗なんてことばは、いまや死語ではないかとさえ思う。多くの大衆は、とかく目先の利益さえあれば何でもありなのである。想像力の欠如はもう病的で救いがない。この狭い島国にゴルフ場が二千二百もあるという事実に、おどろきもせず嬉々と棒を振って歩いている。

 保守とか革新とかいうが、保守はあるのか。あればいい。あるならそれも考え方であるから、僕はかならずしも否定するものではない。あるのは反動であり、ウソとごまかしではないか。それを新聞はノー天気に保守という。では言う。平和憲法を改正(2文字傍点)しようとする勢力がある。それはそれとして一つの意見である。しかしその彼らが一致して、日本のアジア侵略を否定し、南京虐殺、朝鮮人慰安婦等の事実を認めようとしないのはどうしたわけか。自衛のための戦力保持を主張しながらも、日本の侵略戦争は歴史的事実であると認める考え方だってできるはずなのに、それがない。だから一つの意見ではないのである。それはほとんど犯罪である。朝鮮人は当時日本人だったのだから、朝鮮人慰安婦は存在しないという、上坂冬子の主張は奇弁にもなっていない。ただの恥知らずで卑しい人物だというだけのことである。これを堂々と四ページにもわたって載せる週刊誌があるのだから、日本バンザイである。

 平和憲法はアメリカの押しつけだという。その通り、日本人なんかにつくれるものか。では農地開放は誰がやったのか。これもアメリカの押しつけだったのではないか。このことを憲法改正(2文字傍点)論者は言わない。日本人が自らの手で農地開放しようとすれば、どれだけの血がながされたことか。多少の想像力があれば分かることである。下手すると現在も内戦中だということも考えられる。高度成長だなんて浮かれられたことか。与党政治家、それにつながる官僚、大企業の経営者、御用ジャーナリストたちは、自分たちの権益は守っても、憲法なんて尊重していない。警察学校では、人権について教えていないのである。代用監獄ひとつなくそうとする動きがない。そんな日本に憲法は要らない。だって、怒りを忘れた多数の日本人はそれを求めていないのだから。

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