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(続)戦時下の日本とスイスの交易は中立違反? 
『1945日本占領』(徳本栄一郎)を元にした考察


<序>

『1945日本占領』(徳本栄一郎)という本はマッカーサー元帥ほか日本占領軍の上級将校にフリーメイスン信者が多かったと言うことを、アメリカ他の公文書館の文書から説明する興味深い本である。

偶然手にしたこの本から、戦時下の日本とスイスの関係において興味深い記述を見つけた。それによると終戦直前に昭和天皇の皇后の名前で、日本はスイスの横浜正金銀行の口座からジュネーブの国際赤十字に、1000万スイス・フラン(今の価値で50億円)の高額寄付をしようとした。

また終戦直後に広島の原爆被災地に、15トンの医薬品を届けたジュネーブ国際赤十字委員会のジュノー博士の日本訪問の目的は、日本占領地域の捕虜収容所の訪問に加え、この日本からの寄付金を受け取るためであったとも書く。

本編では徳本氏のこれらの報告に、筆者の調査を加えるものである。徳本氏はスイス国立銀行、ジュネーブの国際赤十字委員会にまで調査を行っている。それに対し筆者は主としてベルンの公文書館の史料及び日本外交電報、陸海軍電報に当たった。こうして全体として現存する史料は網羅したと言えるのではないか。

なお筆者はこのスイスの横浜正金銀行の口座に関連し、十数年前であるが『戦時下、日本とスイスの交易は中立違反?』(以下『中立違反』と表示)を公表している。その続編としての位置付けであるので、少し時間の経ったものではあるが、是非こちらから先にお読よみいただきたい。

本店は今、神奈川県立歴史博物館になっている。(筆者撮影)



<横浜正金銀行特別勘定>

日本敗戦1年前の1944年8月17日、横浜正金銀行駐在員でバーゼルの国際決済銀行理事の北村孝治郎はスイス国立銀行宛に「支払い協定」の覚書を書き送る。「極秘」の文字が押されている。

内容は先述の『中立違反』に書いたので詳しい説明は避けるが、第二次世界大戦中に米・英・オランダの連合国は,自国の捕虜に対する援助資金として、スイス国立銀行にスイス・フラン(以降フラン)を払い込み、SNBはそれを横浜正金銀行のスイスの口座に入れた。日本と米英は交戦状態であり、直接の送金は不可能であったからだ。

一方日本の横浜正金銀行は知らせを受けると、それに相当する金額を円貨で,日本あるいは日本の占領地帯にあるスイス公使,あるいは総領事に支払った。現地のスイス官憲はこの円貨で、連合国捕虜に対し、酒類,煙草その他の慰問品を送るという仕組みであった。

スイスから日本に向け実際の送金が行われないので、スイスの横浜正金銀行の口座には、連合国が振り込んできたフランがどんどん積み上がった。

また入金されたフランを円、そして中国元へと換金する過程で、実勢レートとは大きく懸け離れた独自公定レートを日本は適用した。これは連合国から見れば、日本の逆ざや稼ぎによる着服であった。

日本はこの口座に貯まった金を、スイスで買い付けた武器などの支払いに充てることが出来た。ただしスイスにおいて兵器を購入しようにも、開戦後は日本への輸送手段がなかったので、実質不可能であったが。



<中心人物 北村孝治郎>


「第一特別勘定」と「第二特別勘定」が開設され、これらの管理者は、先の極秘覚え書きを作成した北村孝治郎であった。それによると、

第一特別勘定が本来の目的、連合国の捕虜に対する慰問費用であるが、80%が上海、60%が日本ほかに送金される。第二特別勘定は裏の目的、スイス企業への支払いに使用されたが、20%が上海、40%が日本ほかである。
総計が100%でなく200%になるのは、何か仕組みがありそうだ。また第一勘定に上海向けが多かったのは、捕虜が中国大陸に多かったということか。

そして協定の効果は口座の金額としてすぐ現れた。成立4ヶ月後の1944年末の残高は2千398万スイス・フラン、終戦直後は7千477万フランに達した。(徳本氏)

共同通信の報道によれば、米・英・オランダ3ヶ国が振り込んだ総額は、終戦までの1年足らずの間に計1億1千500百60万スイス・フラン、現在の貨幣価値で約600億円である。

当時の経済規模は今よりはるかに小さいので、実際の経済インパクトとしては、この換算値以上に大きいはずである。日本の焦土化を防ぐため、国際決済銀行を通じてアメリカとの終戦工作に活躍する北村であるが、同時にかなり微妙な金融の協定をまとめたことになる。



<国際赤十字委員会への寄付>


日本の国際赤十字委員会(以下ICRC)への寄付の話はいつ始まったのであろうか?ドイツの敗北が間近に迫った1945年4月、ベルンの日本公使館アドバイザーであるJ・バーネンスが、非公式かつ内密にICRCへ、皇后の寄付を受け取るか問い合わせたというのが最初のようだ。ICRCの幹部ピクテは同意の返事をした。ICRCは戦争で各国拠出金は枯渇して、苦しい財務状況であった。

横浜正金銀行全史の中で北村は
「終戦少し前の5月頃と記憶する。ある日私がスイス・ナショナルバンクの総支配人に会うと、(中略)今ある数千万フランの預金のうち、日本はこの際いくらかでも赤十字へ皇室名義で寄付しておいてはどうか、との入れ知恵を受けた。」と書くが、スイス銀行に残る史料では北村が提案したことになっている。(いずれも徳本氏)

このように具体的内容に若干のずれはあるが、ドイツが敗北したタイミングで話は始まったと言える。



<支払いの動機>

ではなぜ日本は、終戦間際に大きな金額をICRCに寄付する必要があったのか?もう敗北の近い日本には、ICRCの活動に期待出来る分野は少なかった。

一方残高の膨らんだスイスの横浜正金銀行口座であるが、5月にドイツが崩壊し、次いで日本も降伏すれば、それは凍結されることが予想された。連合国に没収されるくらいなら、と考えたとしても不思議はない。

アメリカが保管する日本側交信の解読電から、日本側の動きを見ることが出来る。北村と同じく和平工作に関わる藤村義一海軍中佐も、それと平行して資金問題に取り組んだ。

藤村中佐は5月25日、スイスの海軍武官室、陸軍武官室、公使館、財務官、正金銀行の間で合意の上として、連合国の没収を逃れるため、スイスの資金で、今各種機械類を発注して金額を払い込めば、2,3年後に供給され、将来の日本の産業の再生に役立つと打電した。以下がその電文の要約である。

108号 軍務局長宛 
「88号電に関して中央の見解は外交至急電で確認できた。当地の公使官、海軍、陸軍、財務官、正金銀行が観察しているところ,米英はドイツの崩壊後、日本への攻撃をあらゆる方面で強めている。彼等はスイスの日本資金にも焦点を当てている。

目下現有の口座や支出を調査しながら、確実に我々の欧州資金を凍結する準備に入った。(ドイツ公使館はスイス政府によって5月8日に封印されたにもかかわらず、その内何万フランもの基金は、スイス政府によって押収された。この資金は将来、国際裁判所に委ねられて使用法が決められる。)

敵の策略によって凍結される事態を防ぐため、スイスの資金、当初は約1500万円、を直ちに可能な範囲で現物、つまり小型船舶用ジーゼルエンジン、工作機械、計測器等に代えることが急務である。

しかしながらこうした注文は,敵の圧力の大きい現下においては,海軍のMAURER、SULZER(いずれもスイスの企業)等との長年の関係を利用する事が一番である。ただし表面上、海軍は直接参画しない。

品物が供給されるまで所有権はスイス側にあり、日本には2、3年後に供給される。注文の金額は本国の指示による。

こうすれば凍結が避けられる。これが帝国の将来の平和時の産業に役に立つ。海軍,陸軍,公使館、財務官、正金銀行の間でこちらでは完全に考えが一致しているが、大蔵省,外務省などとの調整を取る事は全く不可能である。事態は刻々と深刻化している。したがって可及的速やかに海軍の基本原則の指示だけをいただきたい。」

日本の大蔵省、外務省との調整は不可能なので、海軍の判断で指示をもらいたいと、藤村独特の独善的論理で提案を行った。それでも藤村中佐の名前で、戦後の平和な時代に備える対応が語られたのも興味深い。又金額として挙げられた1500万円は当時でほぼ1500万フランで、ICRCへの寄付1000万フランより大きい。金額からして横浜正金銀行の特別勘定口座を意味していよう。

名前の挙がった会社MAURER(マウラー)はバーゼルの輸送会社で、実際に2万5千フランを渡して、スエーデンへの輸送を検討させていた。スイスに対して、スエーデンの方が連合国の監視も強くなかったようだ。SULZER(ズルツァー)は1834年創立、今も存在する機械メーカーである。

こうした”虫の良い”発注が実際に行われた痕跡はないが、当時スイスの日本の出先の各機関が、貯まったフランの没収を恐れ、対策を考えていたことが分かる。



<支払い指示>

英国はほぼ同じタイミングでこの寄付の動きを察知し、国際赤十字に寄付を断るよう促すべきと促した。しかしスイスは中立的立場から、これを禁止することはなかった。

そして8月7日、東京の東郷外務大臣はICRC代表宛の寄付に関する書類を作成した。皇后の名前を出すのであるから、事前に天皇にも話は伝えられたであろう。

翌8日、日本の横浜正金銀行は北村にICRCへの送金を指示した。そして20日、加瀬俊一公使はSNBに送金を要請したが拒否された。日本の敗戦と同時に、スイス当局がSNBの日本資金を凍結したからである。
加瀬公使の報告によれば、凍結はポツダム宣言の受諾を表明した8月10日正午をもって行われた。何日か日本側のアクションが遅かった。(いずれも徳本氏)

ジュノー博士も回顧録でこの件に触れている。
「8月12日、捕虜問題の責任者であった鈴木(九萬)公使が、東郷外務大臣から私宛に親書を預かって来た。その内で東郷外務大臣は我々に感謝の意を表し、日本が国際赤十字に多額の寄付を申し出たことを伝えた。」(『ドクタージュノーの戦い』)
徳本氏は冒頭に述べたように、これがジュノー訪日の重要な目的の一つだったと、全く新しい説を書く。



<支払いへ>


支払いへの動きは戦後も続く。翌1946年5月30日、ICRC幹部2人がロンドンの大蔵省を訪ねた。彼らは訴えた。
「凍結された資金は皇后が赤十字に対して寄付したものだ。それを解除するよう支援してほしい。」

当時、ICRCは実質的に破産状態にあった。長引く戦乱で、各国拠出金は枯渇、債務は650万フランに達した。日本からの寄付金1000万フランは、この負債額全部をカバーして余りあるものであった。

しかし英国はこの訴えを退けた。皇后の寄付金は元々英国が日本領の自国捕虜救援に送った資金だ。それを日本は為替操作で不正に蓄財したと主張した。

その後1949年5月、ICRCはアメリカにアプローチし、その同意を得ると、英国も渋々支払いに同意した。4年越しで寄付が実現したのであった。(いずれも徳本氏)



<その他の資金の動き>


その他の興味深い支払いの動きを紹介する。
「ベルンの日本公使館がスイス外務省にSNB口座の資金を活用できるか問い合わせてきた。特にモスクワの日本大使館に600万フランを送金したいという。これを外務省はロシア中央銀行と関係を改める好機と見ている。」(SNB理事会議事録 1945年5月11日)

文末の外務省はスイスの外務省を指している。スイスは戦時中、ソ連と国交がなかった。よってソ連への送金は、スイスにとっても関係修復の好機ととらえ、日本の送金を認めても良いと考えたのである。

また終戦から2年半経った1948年2月12日、横浜正金銀行の口座からエリコン・ビューレ社に299万5000フランが支払われた。(SNB理事会議事録 1948年9月1日)

敗戦直後の1945年8月29日、北村はSNBに手紙を送りビューレ社に294万1800フランを支払うよう指示していた。ここでも北村の名前が出てくる。これに利子が付いたのであろう。

筆者がスイス公文書館で見つけ、『中立違反』で紹介した1943年8月時点のスイス企業の対日本売掛金調査の一覧表に
Werkzeugmaschinenfabrik(後のエリコン・ビューレ社)は、まさに294万1800フランとなっている。全売り掛け金額の半分近くである。
2つの全く異なる情報の数字が1フラン単位で一致するのに驚く。1943年8月以前に発注、納入された兵器の代金も、こうして8年位経って支払われた。

またベルリンの日本海軍武官室は、ベルリン陥落前にクーリエを使って46万スイス・フランをスイスに搬出したというが、連合国の払込金額に比べれば微々たるものだ。

さらに1946年1月、在留邦人70名あまりが日本に引き揚げる際、船賃をふくめて総額70万フランの所持を認められた。加瀬俊一公使が最大で4万フラン、北村理事は2万7千フランであった。この金額は連合国に認められ、例の口座から引き落とされたのであろう。敗戦国の日本人にとっては大金であるが、帰着した浦賀の所持品検査で没収されたのではなかろうか。

同時に公使館の持つ資産として560万フラン他、公使館の車がスイス側に引き渡された。ただしこの多くは、後に日本が国際社会に復帰後、大使館としてまた返還されたと考えられる。



<フィリピンにおけるスイス人虐殺の補償>


次に別の日本とスイスの懸案事項を紹介する。スイス公使館参事官であった与謝野秀は『一青年外交官の思いでのヨーロッパ』に書いている。

「(1945年春)不幸にもフィリピンで十数名の犠牲者を出したスイスでは世論も硬化し、日本との国交も怪しくなりだした。そして従来解決のつかなかった日本内地における懸案の一斉解決を要求してきた。

加瀬公使は本省が軍部及び諸官庁を説得し得るようにあらゆる努力を傾けた。ようやく東京から長々とした前置きがあって、最後にしかし大局的見地より遺族に些少の見舞金を贈って解決できるならば、然るべく取り計らって差し支えないと言う訓令が届いた。」

この「些少なる見舞金」の言葉を元に出先機関である公使館が、機転を利かせた金額で解決を見たのであった。この「些少なる見舞金」はいくらだったのであろうか?また遺族への見舞金だけでスイスの世論は納得したのであろうか?

筆者は今回1000万フランの国際赤十字委員会への寄付の話を読んだ時、この与謝野の話を思い浮かべた。それは悪化したスイス世論を意識したものではなかろうか?つまり引き続き、日本の利益代表を引き受けてもらうためである。ここでこの話を少し掘り下げる。



<スイス外務省の電報>


1945年5月4日、シュトゥッキ外務次官からゴルジェ駐日公使宛に長文の電報が送られる。外務次官はゴルジェに対し、フォーマルな「あなた」ではなく、連帯の気持ちを込め「君」で語りかけている。

「君らの苦情および、援護を求める叫びは、こちら側の胸に迫るものがあった。よって私と課長は何度かこの件で加瀬公使と話し合った。

その話し合いの結果は大統領(Bundesrat)にも伝えた。彼は問題の重要性を認識し、次のように決定した。
1 明日、全閣僚(Gesamtbundesrat)の名前で、君らの望んだ駐日公使館の軽減策を盛り込んだ、最大レベルの抗議文を加瀬公使に手渡す。

2 君らも東京で伝えてほしい。満足のいく回答が得られかつ実際に効果が見られるまで、スイスはさらなる国の利益代表となること(特にアメリカ)を拒否する。

3 日本の態度に対する抗議として、29人のイタリア駐在の日本人外交官をスイスに避難のため入国させてほしいという、加瀬公使の緊急の依頼事項も断った。

さらに今引き受けている利益代表を止めないのは、他に受け手もなく連合国に迷惑をかけたくないという思慮からである。しかし必要ならさらなる対抗処置として、三谷隆信元フランス大使ら、ドイツから避難してきた外交官も国外に追放する。」

冒頭のゴルジェ公使からの不満の内容は不明であるが、おそらくフィリピンでのスイス人の虐殺に加え、ICRCが捕虜収容所訪問に際しての、日本の非協力的態度であろう。

またこれまでスペインがアメリカにおける日本の利益代表国となっていたが、4月に対日断交とともに日本の利益代表国がない状態であった。そしてスイスがその後任となることを阻んだのである。

またスイス日本公使館としては、自分らも国外追放になるかもしれないという威嚇を受けた。加瀬公使は本国に必死に解決を訴えた。



<日本の合意>


これに対し与謝野が書く。外務省は
「軍紀厳粛なる皇軍がかくも非戦闘員、特に中立国人を殺傷するが如きことは、とうてい想像しえないことであり、また調査も不可能である」と長々しい前置きがあって、先述の些少なる見舞金の支払いに同意したのであった。

外務省のこの電報は日本には残っていないようだ。アメリカに残る解読電によればそれは5月25日である。
「東郷外相発加瀬宛 、スイス人殺害の保証金を支払い同意というものである。」

これに基づいて遺族に補償金は支払われたのであろう。しかしそれでもスイスの態度は硬かったようだ。

5月26日、藤村中佐は書き送っている。
「スイス政府は駐日スイス公使の待遇改善に関し非常に感謝している。しかしXX裁判のスパイ容疑の件には沈黙を守っている。そしてこれが原因で状況が悪化しないことを望んでいる。」XXの部分は戦後アメリカが公開に際し、マスクしている。

次は7月7日である。
「スイス外相は議会において在外スイス人の戦争犠牲者を国別に列挙したが、最後に日本においてもスイス人10名逮捕され、また米軍のマニラ占領前、同地にて12名は虐殺せられたる旨を述べ、出来得る限り関係国と外交交渉を、未解決の件については今後もなお交渉を続ける旨付加せり。」と日本に関し”虐殺”と言う言葉を使った。(1945年7月7日 加瀬公使発東郷外務大臣宛)

その後8月1日の加瀬電「利益代表及び救済費に関する件」に見られるように、スイスはようやくアメリカ国内の日本の利益代表を引き受けたのである。

外務省は事件の再発を恐れたのであろう。8月9日、東郷外務大臣は支那、上海、北京、広東、天津、張家口の外交機関に向け、スイス人への対応について注意を促した。

「スイス国標尊重方の件
スイス外務省は比島等における先例にも鑑み、万一の場合を考慮し

1 日本軍官憲に対し、スイス人はスイス国標識(スイス国が欧州などにおいて利益保護のために使用している赤十字のマーク)を提示すること

2 スイス居留民は行動を慎み、絶対に連合国側に有利に動きたりとの印象を与える如きことなき充分徹底せしむること、

これらは在上海スイス総領事にも訓令せるに付き、日本側においても好意的にご考慮相成りたしと、在スイス加瀬公使に申し入れあり。」

与謝野は書く。
「スイスとの断交は、世界にいよいよスイスにまで見放されたかという笑いの種を提供するばかりか、世界各地の邦人の問題でもある。そしてさらに(スイスに利益代表を降りられると)交戦国間に懸けられた唯一の細い橋が切れることになる。」

こうした動きを見ると、ICRCへの巨額の寄付は、日本の敵国での利益保護をスイスに引き受け、続けてもらうための重要な方策であったと、筆者は考えるのである。そして唯一可能な支払先であった。

終戦とともに凍結された特別勘定は1952年のサンフランシスコ講和条約に基づき、過去に前例のない「連合国捕虜への補償金」として、ICRCが1956年に残金3千3百万フランを没収。開設から12年の曲折を経て、ようやく資金の一部が元捕虜に渡った。(共同通信)

最後に何度か本文中で著書から引用させていただいた徳本栄一郎氏に改めて感謝申しあげる。

以上
(2017年3月5日)



戦争被害者への補償>


戦後、もう一つの案件で、このスイスの横浜正金銀行口座が話題にあがっている。
先に「スイス外相は議会において在外スイス人の戦争犠牲者を国別に列挙したが、最後に日本においてもスイス人10名逮捕され、、」と紹介したが、こうして逮捕されたスイス人は戦後、その精神的苦痛の補償を日本政府に求めた。
その内以下の5人に関しては、日本のスイス公使館が間に入り、このスイス銀行の口座から払う事を要求した記録が残っている。

ロイエンベルガー兄弟  13万フラン
ワインガルトナー     5万フラン
トライクラー      10万フラン
マイヤーホールト(子孫)12万7600フラン
計           40万7600フラン

この時横浜正金銀行の持つ残高は7260万2000フランと書かれている。うち第一特別勘定が3843万6000フランで、この残高は下ろしても良いのではとスイス公使館は考えた。

しかし日本政府はこの口座に関し交渉の自由が全くないので、アメリカ占領軍財務局に話を出した。それはアメリカ本国に回った。そしてワシントンのスイス公使館から得た情報によれば、
「日本の賠償問題、日本の海外資産の処理方法が決まるまでは、この口座の問題も解決しない」との事であった。
それは長引くことは自明であった。スイス公使館は被害者の苦痛を和らげるため、公使館ではまずはスイスの財務省が支払うことを要求したが、これも本国に拒否された。
(1947年2月27日付け日本スイス公使館メモより。2017年5月14日追加)

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