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戦時下、横浜に暮らした外国人の受難

Sufferings of Foreigners in Wartime Yokohama

大堀 聰
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<序>

戦時下の日本において、いや世界のどの国においてもだが、戦艦がどこに停泊しているかは極秘事項であった。日本の場合アメリカの潜水艦の湾外での待ち伏せが可能になる。また航空機の発達で空母を飛び立った飛行機が、瞬く間に現場に急行し、爆弾を投下することも可能である。

そして当時は外国人イコールスパイという風潮が日本人の間にはあった。外国人はこうした艦船の目撃情報を、中立国人を経由して連合国に流すに違いないと恐れた。

ドイツ人の商会員であった山手在住エドワード・B・レーベダックは、1942年10月31日に外国人立ち入り禁止地域である磯子区杉田町峰に立ち入ったところを警察官に拘束された。しかし故意ではなかったため、説諭の上釈放された。その際の同行者は蘭印引き揚げドイツ婦人(後述)4名であった。鎌倉在住のドイツ人が横須賀線で寝過ごし、目が覚めたら立ち入り禁止区域の横須賀に着いたという、今で言えば笑い話もある。

また同年11月30日に横浜港で4隻のドイツ軍艦艇他が大爆発を起こして、ドイツ海軍兵士を主体に、102名が犠牲になった。今日では艦の清掃作業員のたばこの不始末が原因とされるが、当時はスパイ説がささやかれた。

戦況を見ると航空母艦ホーネットから発進したB-25双発爆撃機16機が初めて日本本土攻撃をしたのは、開戦から半年も経たない1942年4月18日のことである。同年6月5日から7日にかけてのミッドウェー海戦で、日本海軍は空母4隻を失う大敗北を被る。南方では1943年2月1日から7日にかけてガダルカナル島から撤退する。


<居住禁止区域の設定>

このような状況で横浜、横須賀の港を見渡せる地区が外国人居住禁止区域に指定される。警察局の1943年8月24日付けの「特殊防諜措置に要する経費」(以下「経費」)という文書には次のように書かれている。

「大東亜戦争の現状に鑑み、防諜上の重要地域、特に東京湾要塞地帯たる三浦半島、
房総半島、横浜市の高地及び臨海地帯に外国人の絶対居住禁止区域を設定し、右地域内に居住する外国人は総て適当地域に移転せしめ、以て戦時下防諜の万全を期せんとする。
依ってこの経費を要す」

空襲の激化を予想した最初の学童疎開は1944年8月4日である。その1年前に出されたこの外国人の退去の命令は、彼らの空襲からの保護ではなく、文字通り防諜上の理由からと言えよう。

それを記した文書はほとんどが日本終戦時に焼却されたが、元内務省警保局理事官の種村一男氏が個人的に保管してきたものを、今日見ることが出来る。(アジア歴史センター:種村氏警察参考資料第88集他)そしてこの退去命令はかなり緻密な計画に基づいて行われたが分かる。
本編ではこの史料を中心に分かりやすく書き下し、歴史的な背景から多くの外国人の住む横浜地区を中心に、彼らの動きを追うものである。

現在の横須賀港(筆者撮影)



<経費>


残された史料「経費」は強制退去に伴う費用が最初に来る。警察費総額はおよそ330万円である。そしてこの金額は移転費、家屋増改築費などに分かれ、移転にかかる費用は原則全部警察が負担するとしている。

1940年当時の日本人の平均国民所得は512円だ。当時の450万円とすると今の価値に変換するとおよそ1万倍、総額330万円は現在300億円くらいの規模の予算計上となる。決して少なくない大規模な計画であった。また外国人の引っ越しに関わる費用はすべて負担するとしているのは、当時の警察の措置としては比較的丁寧な対応ではなかろうか?



<対象地区と優先順位>


立ち退きには優先順位がつけられた。
1 発令後最も速やかに立ち退きを要する地域(第一次立ち退き)
横浜市中区:本牧元町、本牧大里町、本牧三之谷、本牧荒井、本牧和田、本牧満坂、矢口台、豆口台、根岸町(ほか省略)

2 なるべく速やかに立ち退きを要する地域(第二次立ち退き)
横浜市磯子区(全域)、戸塚区(全域)、
中区:本牧3丁目及びに4丁目、小港町、山手町、新山下町(ほか省略)
神奈川区(一部地域)
鶴見区は生麦町の花月園のみ
横須賀市 葉山町、三崎町など

中区は町単位で指定しており、指示が細かい。中でも本牧地域がまず最重点地域だったと見て取れる。一方元外国人居留地で外国人が多く住む山手町は、優先順位の2番目であった。この基準は書かれていないので推測であるが、今のように埋め立ての進んでいない当時、三浦半島が横須賀方面までよく見渡せる地域が優先された。先に紹介したレーベダックが逮捕された磯子区は全域がこれまでの「立ち入り禁止区域」から、「居住禁止区域」に指定される。

一方横浜港に接する山下町、外国人のお店もあった元町は立ち退き対象とはならなかった。この点からするとやはり主目標は横須賀軍港の保護で、横浜港は重要度が低かったと推測される。よって山下町のドイツ総領事館、ホテル・ニューグランドなどには外国人は勤務ないしは、住み続ける。元町も対象にならずドイツ人フランツ・メッツガーはデリカテッセンの店を続けた。
他にも冒頭に述べられている房総半島であるが、具体的に都市名が入っていないのは、暮らした外国人が少なかったからか。また外国人が少しく暮らした鎌倉、茅ヶ崎、藤沢方面も対象とはなっていない。

鶴見区は花月園のみとなっている。花月園は1914年に開園された遊園地だ。しかし同史料を見ても園内に外国人は住んでいない。「高台にあったことから高射砲陣地としても活用され」(ウィキペデア)とあるので、指定はこの関係であろう。


第一立ち退き地域の本牧荒井から見る横須賀方面(筆者撮影)



<実施要領>


ここに挙がっているのは「案」となっているが、実施要項は概ね次のようだ。

1 退去の期限に関し、適当な弾力性を与え、無用の摩擦の無きように。
2 公布に先立ち、外務省においては特に枢軸国に対し、今回の改正趣旨を説明し、実施に関しその協力を要請すること。
3 退去に伴う移転費用はわが方において負担し、移転全般にわたり出来得る限り便宜を提供すること。
4 公館、公館員官邸並びに公館員および通信員の私邸に関しては、好適なる家屋を優先的に斡旋すること。
5 退去はおおむね第一次退去区域内に居住する者より順次行うも、移転地家屋の如何によっては公館、公館員官邸、公館員および通信員を優先的に考慮すること。
6 退去すべき外国人の国籍別優先の序列は概ね下記に依るも、枢軸国人(特に独伊人)、及び防諜上特に危険なる場所に居住する者に関しては、移転先に好適なるものあるに於いては、第一次的に考慮を払うべきこと。

優先序列
1. 敵国人
2. 無国籍人
3. 中立国人
4. 枢軸国人(枢軸国人はさらに次の優先順位がつく)
イ. 防諜上特に危険なる場所に居住する者
ロ. 反日、反ナチ、反ファッショ、親英米並びに○○者(判読不能)
ハ. 独伊を除く枢軸国人
ニ. 独伊
ホ. 外交官
7 敵国人は成るべく京浜地区外に適当なる個所に集団的に居住させること。
8 蘭印よりの避難ドイツ人は区域の内外に居住するに関わらず、ドイツ側の申し出もあり、京浜地区外に適当なる地に集団居住を斡旋すること。
9 区域の内外に関わらず、職業なく必ずしも京浜地方に居住することを要せざる者は、京浜地区外に適当な移転先を物色し、これが移転を世話すること

同盟国ドイツ人も例外なく、退去を求められた。数的にも一番多く、最も影響を受けたことになる。また敵国人が最優先とされたが、実際の横浜の敵国人は老齢故、もしくは日本人との国際結婚ゆえに日本に残った者がほとんどだ。彼らを危険視する警察は過剰警戒をした感がぬぐえない。

駐日外国官憲(特に枢軸国側)に対する説明要望事項
1 今回の措置は対米英防諜措置にして枢軸側の戦力強化に貢献する所が甚だ大なので、ともに対米英戦争を遂行している中で、我が方としては盟邦(独伊他枢軸国)が、欣然、この措置に対し協力するものと期待していることを説明する。
2 本令の改正により該当者は区域外に立ち退くべき法律上の義務あること当然なるも、
我が方としては(あまりそれを盾に取らないで)積極的に代替家屋の調査、移転の斡旋、移転費用の支給等に関して好意的に援助をなすべきこと。
3 本令改正後はその区域内に若干の期間居住し得るも、本人以外は立ち入りを許可せざる方針なるを以て、本人は居住上極めて不便になるはず。よって直ちに立ち退きを要すること。
4 公館また公館員に関しては特に優先的に便宜を供与すべきこと。

同盟国との信頼関係に関わるので、警察も慎重を期したことがうかがわれる。しかし根底にはドイツ人も含めて「外国人は信用せず」という考えがあったのであろう。



<蘭印引き揚げ婦女子>


ドイツ側から依頼のあった「蘭印引き揚げ婦女子」に関しては次のような調査結果が載っている。彼女らは戦前インドネシアで暮らしていたが、オランダによって夫を抑留され、日本に避難してきて、ドイツ大使館の経済的援助の元に暮らしていた。日本側も彼女らのおかれた状況を考慮した。

それまで主として暮らしたのは次の2か所だ。
ブラフ・ホテル 山手2番 24名(避難民、女、子供)
インターナショナル・スクール  山手253番 20名(避難民、女、子供)

移転先家屋調べ (昭和18年6月23日調査)
1 蘭印より避難して来たドイツ人は無職なので、必ずしも京浜地方に居住するを要せず、またドイツ側の申し出もあり他の地方に適当なる家屋を斡旋して居住させる。
これが行先予定地
山梨県山中湖畔 ホテル・ニューグランドまたは山中湖ホテル
同 河口湖畔  富士ビューホテル
長野県野尻湖畔 レークサイドホテル

実際はこれらのホテルではなく、もう少し分かれて住んだようだ。また野尻湖には行っていない。



<公館>


その計画の細かい例を記そう。禁止区間内には次の3つの外国公館があった。
フランス総領事館 山手町185 所有者:フランス政府
イタリア領事館  山手町8 所有者:帰化邦人エドワード・ロード
スウェーデン領事館 山手町126 所有者:日本人石井ミヨ

建物の所有者にある帰化邦人のエドワード・ロード、日本人石井ミヨはどんな人物であるか気になる所だ。
公館建築費はそれぞれフランス45万円、イタリア17万円、スウェーデン19万円と見積もられている。新たに洋館を建てるつもりもあったということか。



<対象者>


次いで絶対居住禁止予定地域内居住外国人調査票(1943年6月7日現在)が付く。この史料からは当時の日本の警察がいかに外国人を厳格に個人ベースで管理していたかを知ることが出来る。

対象者は全体としては
第一次立ち退き地域 355名
第2次立ち退き地域 851名
計        1206名
である。

外国人の多い中区山手町を見るとドイツ人292人、イタリア人9人、スペイン人40人、スイス人25人、白系ロシア人(無国籍)41人など計485人が国籍別に上がっている。他には本牧3丁目55人、三浦半島109名(内中華民国93名)などだ。

国別では
ドイツ   530名
イタリア   34名
ハンガリー  14名
フランス   67名
スイス    33名
中華民国  255名
白系ロシア  57名
とドイツ人が圧倒的だ。イタリアもハンガリーも枢軸国だ。まさに同盟国人の強制退去計画であった。

さらに敵国では  
英国     31名
豪州      1名
カナダ     5名
米国      9名
オランダ    3名
など日本人との婚姻、高齢などの理由により抑留を免れていた敵国人がわずかではあるがいた。また修道女も滞在を許された。無血教会修道院(山手245番)にカナダ女性3名がいた。
「外国人」と言いつつも「日本人」が86名いる。逆に婚姻で外国籍となった日本人女性であろう。

職業別では
公使館員       32名
銀行、商社社員   104名
教師         34名
医師          5名
船員         50名 (ほとんどがバンドホテルのドイツ船員)
などの他、
無職が837名とかなりの数を占める。主婦、高齢者の他、戦争で海外とのビジネスがほとんど途絶えて無職となった成年男性も沢山いたと考える。

最後には対象地域、第一次、第二次立ち退き者すべての住所と名前が載っている。
かなり省略したが、実際はどのリストも1206名がもれなく挙がっている。



<絶対立ち入り禁止区域の意義>


その後発令後4か月足らずの1943年12月の『外事月報』には「臨時特別措置関係」
という記事で該当者の内、移転完了者151名と出る。
次いで1944年8月の『外事月報』にはほぼ対象者全員の移転先、移転日時が載っている。こうしてほぼ1年で、立ち退きは完了した。

結論から言うと、こうして立ち退いた外国人だが、彼らの職業などを見ても日本の軍部が恐れたような、港湾の情報を敵国に流す危険は非常に少なかったと考える。確かに終戦時には軍機保護法違反で20人ほど検挙されていたが、彼らも今から見れば軽微な行為で逮捕されたものが多いようだ。

職業を持つ者は京浜地区の別の場所に住居を移し仕事を続けたが、婦女子を中心にこれを疎開命令と位置づけ、軽井沢などに移った外国人は多い。



<終戦と疎開>


その後、戦況が悪化し最終局面の1945年5月28日、警察局により「外事警察特別措置」に関する経費という新たな文書が出される。そこでは
「大東亜戦争の推移に鑑み、内地散在の在留欧米人を速やかに一定の特殊地域に収容し、防衛政策の徹底と併せてその保護を期せんとする」
とこちらは3月10日の東京大空襲などの本土空襲の激化を受けての措置だ。ドイツはすでに降伏しているので、同盟国としての配慮は必要なかった。
まず「防衛政策の徹底」とは、空襲に乗じた不穏な動きを封じることであろう。日本が断末魔を迎える中でも、外国人を保護しようとしたことは特筆に値しようか。一方、強制的に特定地区に疎開させることから、この施策を一種の「抑留」措置と呼ぶことも出来よう。

経費は総額7百50万円と前回の倍の金額を計上する。終戦間際、財政の苦しい日本の中で、よくこれだけ計上したと言えよう。

収容人数
軽井沢   1250名
河口(山口) 250名
箱根(神奈川)150名  計1650名
全国計 2800名
と2800名の疎開を見込み、軽井沢には内1250名を送ろうとした。

その根拠となったのが、1944年12月末現在の「在留欧米人員票」である。そこでは
ソ連     270
ポルトガル  208
スイス    227
スウェーデン 155
ドイツ   2802
イタリア   339
フランス   475
英国     250
米国     154
スペイン   130
その他各国 1793
旧露及び無国籍 1570
と総計8153人の外国人が日本に暮らしたことが分かる。英米等敵国の抑留者はこれには含まれない。「その他各国」に括られた1793人は中国を主とするアジア系の外国人であろう。旧露(ロシア革命を逃れた白系ロシア人)は日本に1000人はいたと言われるので無国籍を合わせて1570人は妥当だ。

県別から拾い上げると
東京(警視庁) が1818名(公務員238)と最も多く、次いで神奈川の1363名(同186)だ。神奈川はすでに箱根地方に疎開した者を多く含む。長野が974名(公務員213)と多くは軽井沢で、外交官がすでに多く疎開していたことが分かる。関西では兵庫県が1931(公務員20)で群を抜く。県別の計は7476名だ。こちらはアジア系を除いた数字か。

なお軽井沢居住外国人現傾調査1945年5月20日によれば計1490名(公務員201名、一般人1289名と、前年末に長野県全体で974名であった外国人が、半年も経たないうちに軽井沢だけで1500人とさらに膨れている。

今回軽井沢にさらに1250人収容するという外事警察特別措置を受けてであろう、外務省軽井沢出張所の大久保利隆所長は、東郷外務大臣に1945年6月6日、以下のように書き送っている。
「軽井沢在住外交団員に対する食料及び燃料の配給状況に関する件」
「当地における疎開外交団員数は東京横浜の空襲激化に依り急増の見込み。6月1日現在248名でとりあえず今月52名増の見込み。最近一般罹災外人の急増に鑑み約1000名程度の外人増加の見込み。従来共不足がちなる当地食料状況を更に悪化せしむべく、総計2千数百名に上る外人に対する食料供給の困難は、、、(後略)」

大久保所長はさらに1000人など受け入れても食糧を供給できないと危惧したが、実際はそんなに疎開者は来なかった。警察署は19年12月末現在 在留欧米人員票を基に2800名の疎開を計画した。これ以上新しい全国統計がなかったからであろう。しかし実際にはそれ以降特に3月10日の東京大空襲以降、外国人はどんどん自発的に疎開を開始していた。その結果、計画立案5月末時点では先に示したように軽井沢が1500人程度に膨れ上がっていたのである。

1945年5月29日に横浜は大空襲に襲われる。その後すぐに先述のフランツ・メッツガーは家族が疎開していた野尻湖に疎開するが、関係者の話を聞く限りではそれは自主的なもので、こうした勧告を受けたものではないようだ。



<強制疎開>


次は今次の外事警察特別措置による、措置と思われる記録だ。
白系ロシア人セルゲ・ペトロフは
「1945年3月の東京大空襲後の5月頃、一家に軽井沢への疎開命令が出て、特別列車が手配された。会社の関係で東京に残ったセルゲは少し遅れて6月1日に軽井沢へ向かう。そこで白系ロシア人へ割り当てられたのは三笠ホテルだった。数十人が入った」
『心の糧』110ページ)

一方外事警察特別措置の行き過ぎも報告されている、
1945年7月8日、外務省軽井沢事務所の大久保所長は古内外務省政4課長に
「現地受入態勢徐々に進行中なるも、未だ充分ならざるやの印象を受けているところだが、外国人が現在居住する地の警察官憲は、唯当該地域より外国人を追出しさえすればよしの観念に支配されて、当地軽井沢警察と何等の連絡なく、どんどん追い出している印象である」と書き送った。

そして大磯在住のフランス人デンチシ夫妻(妻は80歳にして全身不随)は妻(注:正しくは母)の病状のため、疎開を希望しなかったが、警察よりは7月30日までに家屋を明け渡し、軽井沢に赴くべしと言われた。このような者は後回しにしてはいかがであろうと、大久保は提言した。『心の糧』補遺

こうした外事警察特別措置に基づく疎開者は、見てきたように計画ほどは多くはなかった。そして結果として見たとき、1943年の絶対居住禁止区域の設定と、1945年の外事警察特別措置の結果、外国人の空襲被害者は少なかった。筆者の知る範囲では、横浜大空襲で祖父の代から日本に住むスイス人エミール・ラベッタの末の妹が(1945年5月29日の)横浜の空襲で、直撃弾にやられて死亡する。



<終戦時の神奈川県外国人>


こうした措置を経て、終戦時には神奈川県にドイツ人は769人暮らしたが、ほとんどが箱根方面への疎開者だ。(在留外国人名簿 神奈川県)
唯一以下のドイツ人の名前が横浜市内に認められる。
フリードリッヒ・フライフース(60) 元貿易商 横浜市南区太田町 
ミツアキ・ウイリー・フライフース(20)
子供がミツアキという名前なので妻は日本人で横浜に留まったのであろう。また南区は外国人の絶対居住禁止区域には指定されていない。

アメリカ人は
小田右一(会社員)と長女幸子 神奈川区 日本名なのでアメリカ国籍の2世であろう。
ジョン・ショーツ(20歳 戸主) 中区本牧 
アンナ・ショーツ (姉)
若いアメリカ女性姉妹だけで戦時下を過ごせないので、日本人(母親?)の庇護のもとにあったのであろう。他に横浜ではないが慶応大学生(日本名)4名が川崎で寮生活を送っている。

英国人は市内に6名、国際結婚の日本人夫人が2名で、他の4人も同様の事情の英国籍人であろう。
さらにエストニア人一家4名。南区弘明寺
オランダ人 ドンカカーチス一家5名 本牧 家長ヘルマンには病弱と書かれている。
デンマーク人 1名 スウェーデン公使館事務員 山下町ヘルムハウス
白系ロシア人 一家3名 中区鷺山 夫が放送協会(今のNHK)勤務なので外国向け放送に関係して特別扱いか?
チェコ人 夫婦2名 南区弘明寺 夫婦 自動車修理
イタリア人 1名 元町
である。
以上国際都市横浜市内に戦中から居住する外国人は数えられるほどで、実質皆無である。
「内務大臣の許可を受けたものはこの限りにあらず」という一文があるので、上記外国人はこの対象者であろう。

一方中国人は計1917人が山下町(中華街)を中心に残った。職業は料理職、洋服職などである。「内地散在の在留欧米人を速やかに一定の特殊地域に収容」と「外事警察特別措置」にあるように、彼ら中国系は疎開の対象ではなかった。空襲の犠牲者もかなり出たのではなかろうか?

(2021年1月26日 完

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『心の糧(戦時下の軽井沢)』
日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録


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