茶道を楽しむ 表千家不白流 清風会師範 石原宗牛
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表千家不白流とは
三つの千家
対立した豊臣秀吉に切腹させられた茶道の祖、千利休。
その子も追われました。長男の道安は、飛騨高山の金森長近のもとにかくまわれ子をなすことなく絶え、養子の少庵は、会津若松の蒲生氏郷にあずけられ、少庵の子で利休の孫宗旦(十四歳)は、大徳寺に預けられました。
利休切腹の三年後、秀吉の勘気が解け会津から戻った少庵(千家二代宗家)は宗旦を茶人に育て上げます。
さて、宗旦の長男宗拙は早くから千家を離れ茶道から身を引きます。
次男宗守は、塗師として歩みましたが晩年、千家茶道に戻ります。高松の松平家の茶堂となり、武者小路千家の祖となります。
三男宗左は、紀州徳川家の茶堂となります。そして、父宗旦の隠居に伴い利休が営んだ茶道場不審庵を譲り受け表千家の祖となります。
他方、父宗旦は隠居所として不審庵の北側に建てた今日庵に移り、四男宗室(裏千家の祖)と暮らします。
こうして千家の茶道は、表千家、裏千家、武者小路千家と分かれます。これを茶道三千家と呼びます。(2010/10 石原宗牛。 参考資料イ;「川上不白茶中茶外」寺本界雄、 参考資料ロ;「茶の湯事件簿」火坂雅志、 参考資料ハ;千家各HP)