茶道を楽しむ    表千家不白流 清風会師範 石原宗牛

目  次

  A ようこそ    B 抹茶を頂こう C 動機不純な入門 D 美味しい水 E 茶道徒然草

 
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B 抹茶を頂こう

 表千家不白流とは


維新に震災と戦災


 川上不白の江戸千家を継ぐ流派は、明治維新、関東大震災を経て、戦前の段階で以下の流派がありました。

   江戸千家 川上家池之端派

        川上家浜町派

        川上渭白派

        川上宗吾派

        石塚派


 中でも日本橋浜町に居を構えていたことから呼ばれた浜町派は、江戸千家の名門です。五代宗家の蓮心斎宗順は、財界の名士を門下に入れ明治期の茶道興隆に貢献します。

 例えば、

  馬越恭平(恭翁);多くの会社役員を努めた実業界の巨頭

  藤原暁雲;王子製紙社長、商工大臣、軍需大臣

  山下かめ;山下汽船社長夫人

  野崎幻庵;三越社長、中外商業社長

 特に、鎌倉時代の美術品、三十六歌仙絵巻切断事件で有名な、偉才の実業家である益田鈍翁男爵も門下です。

 この浜町派はしかしながら、関東大震災で灰燼に帰すと云う打撃を受け茶道活動が中断する中、
宗家が途絶えると言う事態に至ります。

 他家も似た様な苦難に遭い、太平洋戦争を経ると、江戸千家は、池之端派だけとなる有様です。


 浜町派に、秋本宗意が現れます

 秋本は江戸千家浜町派の再興を願います。宗家子孫を探ると、五代宗家宗順の孫(六十七歳)が京都に住まうことを探し当て、七代宗家宗順に襲名させます。

 この折あわせて、これまでの「江戸千家」浜町派を改名し「表千家不白流」とし、高円寺(杉並区)に構えます。

 これで終わらず秋本宗意は、絶えた他の江戸千家流派の復興も図り、渭白派、石塚派を再興させます。宗吾派はとうとう探し当てられなかった。


 さて、秋本宗意は、再興させた七代宗家「表千家不白流(白和会)」から身を引き、もう一つの「表千家不白流(清風会)」を大久保(新宿区)に起こして家元となります。

(2010/10 石原宗牛。 参考資料イ;「川上不白茶中茶外」寺本界雄、  参考資料ロ;「茶の湯事件簿」火坂雅志、 参考資料ハ;千家各HP)

 

川上不白の足跡が多く盛られた調査書があります。表千家不白流の変遷も詳しく展開しています。
「川上不白茶中茶外」
寺本界雄著